沖縄都市モノレール線「ゆいレール」から忘れ物を送ってもらった
子供が沖縄に旅行に行ったことがあるのだが、帰ってくるなり帰りの那覇空港への移動中、モノレールの車内でお土産に買ったものの一部を忘れてきてしまった、という。移動中に自分でゆいレール那覇空港駅に電話し、忘れ物が届けられていることを確認していたのだが、翌日改めて那覇空港駅に電話して送っていただけないかご相談しようとすると今度は「届けられていない」と話しが変わってしまったという。
こういった、問い合わせのやりとりが噛み合わないことで忘れ主が諦めてしまい結局取り戻せないような例も世の中にはあるのかもしれない。しかし、彼には幾多の忘れ物を取り戻してきた経験を持つ父親がいる。熟練の技を見せる時が来た。
子供に落とした状況を再確認する。勤務の合間なので LINE でのやり取りである。
- どこで乗ってどこで降りたか
県庁前駅で乗車→沖縄空港駅で下車
※本来は何両目の何番目のドア辺りかまで伝えるのがベストだが今回は省略
- 何時頃か
14時から15時頃
- 落し物はどのような見た目か
白いビニール袋(レジ袋の類ではなく、しっかりした感じ)に購入したトートバッグが入っている/ピンク色っぽいビニール袋に購入したちんすこうの箱が入っている
- 問い合わせた際の担当者名*1
控えていない
並行してゆいレールのウェブサイトを確認する。「ゆいレール 遺失物」で検索。問い合わせ先の情報を参照する。遺失物は沖縄空港駅、てだこ浦西駅、県庁前駅のいずれかに届けられる。ページの下方に問い合わせフォームがあることを確認。電話での問い合わせは子供がやっているので、まずメールで正確な情報を伝えることとする。こんな感じの文章を送った。ポイントは当たり前のようだけど、日時と忘れた場所、見た目を具体的に伝えること。保管していただいた駅の方の視点で探してもらえるように伝えること。
◯月△日旅行で沖縄を訪れている際に利用させていただきました。
14時~15時頃に県庁前駅から那覇空港駅まで乗っています。
その際に忘れ物をしてしまいました。
昨日那覇空港駅に問合せた時点では「届けられている」との回答だったのですが、本日同じく那覇空港駅に再度電話したところ「届けられていない」と回答が変わってしまいました。
改めてご確認いただけないか、ご相談させていただきます。
忘れたものは下記二点になります。1. 白いビニール袋で内容はトートバッグ
2. ピンク色の袋で内容はちんすこう
問い合わせ時に入力したメールアドレスには入力内容確認のメールが送られてこない、送りっぱなしのメールフォームらしい。問い合わせフォームとしては、あまりよろしくない。メールアドレスを入力間違えしていないだろうな……と思いつつ数時間待つ。翌日まで対応を繰り越しても良いのだが、なんとなく鉄道会社としての対応の青さが見えてきたので数時間後に沖縄空港駅に電話をし、メールフォームで送ったのと同じ内容を電話で伝えた。
すると「今朝お電話いただいたのも認識がございます。実はトートバッグの忘れ物、と確認されたので届いていないと回答してしまいました。白いビニール袋ならば届けられておりまして、てだこ浦西駅で保管しています」との回答を得た。なるほど、今回は視点の違いからくる勘違いだった。トートバッグの方だが、実は誰に贈るかが明確に決まっていたものだった。だから子供は無意識に「トートバッグの忘れ物」と伝えてしまい、駅員さんは「トートバッグそのものの忘れ物」と聴き取ってしまったのだろう。
続けててだこ浦西駅に電話し、やはり同じ内容を伝えて保管されている旨の回答を得た。ただ、間違いなく落とし主かの確認が必要とのごもっともなお話があり、担当の方のお名前を伺い子供に LINE でご担当名も含めた連絡先と何を話せば良いかを書いて送った。本人から再度電話し、無事確認がが取れ、着払いで送っていただけることとなったと横で聞いていた妻から報告があった。
これで一件落着のはずだったが、翌日になってメール問い合わせの方に回答が返ってきた。返ってきたのは良いのだが「ご質問の遺失物は届けられておりません」と返ってきた。やれやれ。
私は昨日の電話での確認状況を返信に書いた。そして電話での問い合わせの内容が食い違ったのは理由があったことと分かったが、間違いがないようにとメールで問い合わせたのに何故また回答が食い違ったのでしょうか、と書いて送った。嫌な客だ。
今度は数時間後に返信があり、沖縄空港駅と県庁前駅とだけ確認を取っていたため正確な状況がご回答できていなかった、との説明があった。この返信の時点で忘れ物は着払いの宅急便で届いており、送り状と受け取った旨を知らせる返信票が同封されていた。送り状には遺失物番号が記載されているので一元管理する考え自体は沖縄都市モノレールは持たれているのだろうが、管理場所を三箇所設定しているのに各場所に届けられた遺失物情報には簡単にアクセスできないようになってらしく思われる。関東の私鉄だと東急電鉄は各線ごとに遺失物の集約駅が定められているのだが、その代わり検索システムがあり、集約駅以外でも参照可能なようだ。私は最寄りの大井町線荏原町駅で手袋だったかを探してもらった時、その場で検索して下さったのを見た記憶がある。そこまで難しいことをしなくても、ゆいレールの駅数であれば Google Drive でスプレッドシートで共有するだけでも良いのではないだろうか。
今回自分が沖縄に行けたわけではないので「photock」というサービスでゆいレールの無料画像をダウンロードさせていただくなど。いつか沖縄にも行きたい。
「落とし物を取りに行ってきた」シリーズ
*1:相手の名前まで確認する、というのは私の仕事上の鉄則のひとつでもある。会社間での問い合わせでも、名前を確認していないまま「先ほどこのように伝えたはず」と話を進めようとされる方は世に多い。実際は他部署どころか他の会社と話しておられたのに勘違いしているような例すらある。問い合わせをする方も受ける方も相手の方の名を押さえておくだけで話の食い違いを防げるし、相手の無責任な言動を抑制できる場合もある。
渡邉信之師範について私が知らなかったこと
1980年代に「Do!スポーツ」という番組がテレビ東京系列で放送されていた。私が奈良市立二名中学校、奈良学園高校、大阪市立大学に在学していた十代だった頃の番組で、「なんで Play sports やないねん」 などとツッこんでいたことを思い出す。
マイナースポーツを取り上げる番組、というイメージがあった記憶がある。 上記 Wikipedia の記事は2019年12月時点で出典が示されていないようだが、ある程度正しいと仮定して読むとモータースポーツ、アウトドアスポーツの回が圧倒的に多いようだが時々武道・格闘技の回がある。合気道は二回、取り上げられている。
二回目が私が大阪市立大学に入学し、合気道部に入部した 1987 年の放送で「極技空気投げ合気の世界」というタイトルである。私はその放送をVHSテープに録画したものを誰かに見せてもらっているはずである。動画検索を試みたが残念ながら見つけられなかったが、微かな記憶では渡邉信之師範が演武をされていたのを覚えている。それは座法で一教の抑えをされる映像を見た記憶なのだが(えっ)と思ったのを覚えている。文字にしてしまうと「渡邉師範は受けに触っていないのに受けは一教で抑えられた」という映像を見たのだ。
Youtube で、公式のものではないが、その雰囲気が分かる動画あった。一教(と思われる)場面の静止画像と合わせて掲示する。時期が書かれていないが、背後に飾ってある写真が植芝吉祥丸前道主のものであるとしたら1999年頃の全国合気道演武大会だろうか。
当時の私の師範は阿部醒石先生だが、大学生時代はあまり稽古をつけていただく機会がなかった。ただ一回生の時に創部二十周年記念式典があり、その際に阿部先生の説明演武を見ている*1。阿部先生も時に触れる前に制したり投げたりを演武でされることがあった。つまり私はそういう技の現れ方もあり得ると考えるような主観の持ち主なのだが、その私ですら渡邉師範の演武は(また少し違うようだ)と感じていた。今改めて上記の演武を見ると「ああ、これは導かれるな、分かるな」と思う技と「これは受け(受け身ではなく)を取り過ぎではないかな、自分だと違う受けになるのではないかな」と思う技の両方があるように感じる。
渡邉師範は今年、2019年8月20日に逝去された。 それを受けて大田区合気道会でも渡邉師範の指導を参考にした稽古をすることがあった。渡邉師範が整骨院を経営され、人体の仕組みにも造詣が深くそれが指導にも現れている……というようなことも知ることが出来た。
整骨院と柔道の道場が一緒にあるような例は時々見かける。柔道創始者の嘉納治五郎先生は最初柳生心眼流、次に天神真楊流に入門されているが、昔読んだ子供向けの嘉納先生の伝記では「骨接ぎの看板を掲げた家の門をいきなり叩いて柔術を教えてもらえぬか尋ね、入門を認めてもらった」というような書き方がされていた記憶がある。
合気道の師範でも柔道整復師の資格を取られている方や、それ以外の整体技術を習得されている方も結構おられるのかもしれないが、意外と耳にする機会が少ない。子母澤寛さんの随筆で「砂泊さんという合気道の名手に肩が張るのを見てもらっている」という記述をみつけて軽く驚いたのは少ない事例のひとつだったりする。
渡邉師範は磯谷公良氏が戦後間もなく創始した磯谷療法をまず学ばれたらしい。股関節の調整を重視するかも手法とのこと。この辺りの身体の仕組みと技との関係という理解についての詳細は渡邉師範のお弟子さんには引き継がれているのかもしれないが、合気道関係でそういった側面について記載している書籍や記事を今のところ見つけられていない。磯谷療法に携わっている方がネット上で公開されている記事がいくつかあって辛うじて概要がわかる程度だった。そのため渡邉師範について私のように「触らない技を演武でされる先生」とだけ思っているような不届き者は実は結構いるのではないだろうか。
渡邉師範がどの様に学ばれ、その結果を稽古に反映されていて、その結果が演武にどのように現れるのかということはこれから様々な稽古の現場でなされるのであり、今回私も大田区合気道会の稽古でその一端に触れたのかもしれない。
2011年3月26日 渡邉信之師範 本部道場最終稽古 (抜粋) Mar 26, 2011 Nobuyuki Watanabe sensei's Final Class@Hombu Dojo
*1:私が卒業した後に阿部先生が道場に来られる回数が増え、ご指導いただく機会が増えることになる
荏原町会館の隣の店の変遷
間も無くクリスマスがやってくる。昨年のクリスマス・イブの時のことだが妻は洋菓子店で働いていて一番の掻き入れどきとなる。普段は弁当を作ってもらうところ手間を省き、この日のお昼は各自でなんとかすることとなった。私は荏原町商店街にあるサンドウィッチ屋さんで買っていった。「ALL DAY BRANCH TO GO」というお店で通勤時間帯から開けておられて便利なのだ。開店が早い代わりに売り切れ次第今日は閉店とされている。
この店は先日書いた庚申公園と同じ荏原町商店街の並びにある。庚申公園や鳥唐揚げの「丸吉」、「GOJYA」というバー、「Lotta Lantern」というベーグル屋さんのあるところから東急荏原町駅に向かう途中。向かって右隣は商店街事務所と「cherry」という美容室(煉瓦の建物)。左隣は「桂庵」というお蕎麦屋さんがある。
「ALL DAY BRANCH TO GO」に初めて立ち寄ったのが2017年7月3日、夜勤明けにお昼にと買ったのだった。この時に店頭に開店一周年と書いてあって、もう1年ですか、初めて来ました、とお店の方と話した記憶があるのでオープンされたのが2016年7月だったはず。
その前はどうだったかというと、現在荏原町駅前にでっかく建っている駅前ビル店舗エリア一階の角に入居されている「さいとう化粧品店」が仮店舗を開いてらっしゃった。「さいとう化粧品店」は元々駅前の、現在駅前ビルの上層部マンションの入り口になっている辺りの、店として一番良い場所に店を構えていらっしゃった。しかし2014年4月から2016年3月までの二年間をかけて駅前にあった公設市場的なエリアを再開発して駅前ビルを建てる際に一度立ち退いて仮店舗に移られていた。この再開発は三菱地所レジデンスが受注して行われたもので*1、当時私も再開発前の情報や雰囲気を書き残そうとしている。
「さいとう化粧品店」は2016年4月に現在の駅前ビルが出来てすぐに入居されたように記憶しているので「ALL DAY BRANCH TO GO」がその年の7月にあまり間をあけずに入居されたということだったかと思う。
では「さいとう化粧品店」の前はどうだったかというと靴店が入っていた。そこまでは私の短い観測範囲でも残っている。「三美堂靴店」という店だった。この店が閉めることを決断されたのが駅前再開発が決まったあたりの時期だった。以下の写真が2013年7月7日に撮ったもの。当年中には閉められたような気がするが定かでない。翌年4月に駅前ビルの建設が始まったのでそれまでには閉められていたのは間違いなかろうと思う。
改めて写真を見比べてみると入居しているビルは同じで建て替えられているわけではない。とすると建物は「三美堂靴店」さんの建てられたもので、「さいとう化粧品店」以降は「三美堂靴店」さんに店舗スペースを借りられているのかもしれない。
ちなみに駅前ビルの道向かいに「麺屋ゆうすけ」というラーメン店があるが、ここも店名を覚えていないが靴屋があった記憶がある。同じ通りを東急大井町線沿いに荏原町方面に歩くと大東京信用組合の支店の百円ショップの Can Do の間に「カメヤ」という靴店が今もある。歩いていける距離内に靴店が三店舗あったということを知ると、荏原町が今よりも更に栄えていた商店街だったということを感じることができる。
*1:三菱地所レジデンスのリリースが現在も公開されている。PDF資料→「密集市街地の防災機能の確保を目的とした「防災街区整備事業」「荏原町駅前地区防災街区整備事業」権利変換計画認可取得」
大森山王ジャーマン通り 古書店の変遷
大森の「あんず文庫」という古書店を紹介する記事が Facebook で流れてきた。Bookshop Lover の和氣さんのポストで、近くまで来られたんだな、と思い「あんず文庫」の場所を確認してみて(あ、天誠書林のあったとこか)と納得した。
上記ポストへのコメントにも書いた、古書店の変遷を一部訂正の上もう少し詳しく、書いておこうと思う。
「天誠書林」がいつからあったのかはよく分からない*1。未読だが岡崎武志さんの『気まぐれ古書店紀行』に天誠書林が登場することから1990年代にはあったと思われる。大森駅から環七通りに抜けるジャーマン通り沿いの、環七寄りに行ったところ。隣が内科・小児科のじゅんせいクリニック、通りを挟んで向かいが中華料理のとんとん亭と京華飯店。この辺りに移ってきた2005年頃に私も一度店に入っている。
自分の鈍さを残念に思うのだが、あまりにも真っ当な古書店としての店内の様子を当たり前に受け止めてしまい本棚の様子などあまり覚えていない。何故神保町ではなく大森の、それも駅からかなり離れた場所にこれほどの古書店が存在するのだろうかということに思い至らなかった。再訪することはなく、2008年3月末日をもって閉店されたと認識している。
その後、私が松旭斎天勝と三島由紀夫について書いた文章にいただいたコメントで「天誠書林」のご主人が三島由紀夫作品の舞台の演出助手を務められた方であることを教えていただいた。
その後更に店主の和久田誠男さん*2が和久田三郎先生のご子息であったことを別の機会に知って、三島由紀夫云々よりも残念に思うこととなった。「先生」というのは、和久田三郎さんは植芝盛平翁先生の合気道の直弟子なのだ。私などからすると尊敬すべき先達であり、たとえ「天誠書林」に何度も通っていたとしても父君のお話を聞くような機会を得るのは難しかっただろうと分かりながら、惜しいことをしたという気持ちは拭えなかった。和久田三郎先生は一般には大相撲の力士、そして力士の待遇改善を訴えて起こされた春秋園事件の主導者である天竜三郎関として知られている。
春秋園事件(しゅんじゅうえんじけん)は、1932(昭和7)年1月6日に発生した力士の争議事件である。 事件名の由来は、東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区大井)の中華料理店「春秋園」に立てこもったことに由来する。また、主謀者の名前から天竜事件、天竜・大ノ里事件とも呼ばれている。複数の関取が、力士としての地位向上や大日本相撲協会の体質を改善するよう要求して協会を離脱したが、力士側の要求はほぼ受け入れられず、結局多くの離脱した力士が帰参した。
春秋園事件ののち争議を起こした力士達は大日本関西角力協会を設立するが、それも解散した後の1938(昭和13)年に和久田先生は満州に体育指導員として赴かれる。翌1939年の春に日本武道の普及のため満州に武道家達を招いたことがあったのだが、招かれたなかに植芝盛平翁先生がおられた。翁先生が説明演武の際に「我こそはと思うものは」と言われたのを受けて和久田先生は翁先生の左腕を持つのだがひしぐことができず、逆に投げ飛ばされたという話を合気ニュース社の『植芝盛平と合気道』に収めらているインタビューでご本人が語られている。この時に弟子入りを志願、認められて三ヶ月という短い間だが本部道場で翁先生に認められるまで直接指導を受けられている。
植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)
- 作者: 合気ニュース編集部
- 出版社/メーカー: 合気ニュース
- 発売日: 1990/03
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 1回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
この話は合気道を修めている人間は知っていても、相撲ファン含め一般の人はあまりご存じないのではないかもしれない。Wikipedia の「天竜三郎」のページにも記載がないので、後日「人物」欄あたりに追記しておこうかと思う。
ちなみに争議の時に和久田先生らが本拠とした春秋園は大井町にあり、以前調べてみたら確か今のイトーヨーカ堂のある辺りだった。和久田先生のご自宅はどうも大森山王にあったようであり、春秋園を使われたのも地元であったからかもしれない。ご子息誠男さんが大森ジャーマン通りに古書店を開かれたのも知った土地であったからだろう。
余談が過ぎた。「天誠書林」は前述のように2008年3月末日で閉店され、ネット古書店での運用に移行されたと聞いている*3。「天誠書林」閉店後すぐあとに入ったのが九品仏から移って来られた「アンデス書房」という古書店だった。私は「アンデス書房」にもやはり一回だけ入った記憶がある。南米に関する本であったり民俗学、特に宮本常一さんの著書が充実していたとのことだが棚がどうだったかやはりほとんど覚えていない。宮本常一は地元山口の偉人であって(宮本さんは周防大島、私は長州の片田舎でちょっと離れているが)『忘れられた日本人』は愛読書なのだが、これまた自分の鈍さが恨めしい。
「アンデス書房」は翌 2009年4月で閉店、同年6月に「東京くりから堂」が入った*4。私は「東京くりから堂」については遂に訪れないままだった。2017年夏頃に閉店されたと思う。アンデス書房さんも東京くりから堂さんも、ネット販売や古書市への出店はされているのではないかと思う。
約2年間空き店舗だったのが、9月14日に「あんず文庫」が開店された *5。Bookshop Lover のポストを読んで数日後に行ってみて、笙野頼子さんの短編集を買った。丁度短編小説について書くことがあったのだ。店内にはバーカウンターがあるのだが先週末に再訪したところお客さんが二人座って店主と話しておられた。既に常連客さんが来るようになっているならしばらくは最寄りの書店は安泰ではないかと安心している。
荏原町商店街 庚申公園そばの変遷
先月の最後の週末、27日の日曜日の早朝に緊急で勤務先に出たことがあった。幸い大事なく対応して最寄りの荏原町駅まで帰ってきたのが11時過ぎだった。
駅から荏原町商店街を少し歩いて、庚申堂のちょっと先に公園がある。庚申公園という。その隣の三角形の土地があって、店が四軒分が並んでいる。左から二軒目に最近内装工事が入っていたのは知っていたのだが、前に立て看板が店の前に出ているのに気がついた。店が開いていないのではて、と思ったら開店が11時半からで、あと少しで開くらしいと気がついた。
店の名は「Lotta Lantern」となっている。店が開くのを待って、ベーグルを三つ買って帰ることにした。帰宅して店のウェブサイトを確認するとベーグルを売っているのは土曜と日曜の11時半から17時までだそうであり、運よく買えたということが分かった。お店の Twitter アカウントの自己紹介では「ベーグル屋」と書かれているが、ウェブサイトでは「アトリエ&キッチン」という表現を使っている。ワークショップなどもされるようで、そのため店主さんとしては後者の表現の方がぴったりくる感じなのかもしれない。家族で分けて食べたが、美味しくいただいた。
食べながら家族と話していたのだが、「Lotta Lantern」のあった場所は2005年に我が家が東京に越してきた時には和菓子屋さんが入っていた。来てすぐぐらいに家族で荏原町を散歩したことがあり、妻がこの和菓子店でおこわを買ったのを覚えている。「塩瀬」という店だった。その後この店で買い物をすることは無かった。
和菓子店が閉めてしまわれたのに気がついたのが2012年に入ってからだった。そこからずっとシャッターが閉まったままだったので七年以上空き店舗のままだったということになる。荏原町は割とすぐに店舗が埋まる商店街なのだが、例外的に長く次が入らなかった。上の画像は2013年当時まだ Google ストリートビューに残っていたの画像に取らせてもらっていたものだ。
上の空き店舗時代の様子を見ると建物自体は古そうだが、このたび内装もやり直していたのを前を通るたびに見ており今は良い空間になっているのではないだろうか。
この並びの他の店についても書いておくと、一番右、公園よりには丸吉という鶏唐揚げ屋さんがある。2010年5月に「最近できた」と自分が Twitter にポストした履歴がある。それ以前はどうだったか記憶に残っていない。なお荏原町だけでも駅の駐輪場の斜向かいに唐揚げ屋さんが出来たり競争があったはずだが、結局この丸吉が残っている。持ち帰り専門で、ごくたまにだが唐揚げや鶏皮せんべいを買って帰る、私としては割と愛用の店となっている。
「丸吉」と「 Lotta Lantern」の間の店舗は結構入れ替わりがあった。Google ストリートビューの画像では空き店舗になっているが、その後に「粕漬渡邉」という、魚の粕漬けを商う店が入った。お店のブログがまだ残っていて、2010年の日付の記事が読めるので丸吉と同じくらいの時期にはあったのではないかと思う。そのあとに「小芥子」という居酒屋になった。浅草線馬込駅近くにある馬込図書館に「芥子の坊」という居酒屋が今もあるが、2011年に一度建て直しをしている。建て直す前は左に「芥子の坊」、右に中華料理の「ミマツ」が並んでいた。現在「ミマツ」は北馬込のバス通り沿いに移っている。その建直しの期間中に「小芥子」を営業していた……という事だったらしい。「粕漬渡邉」のブログでは「芥子の坊」を「本店」と呼んでいるので、ご店主は同じ方だったと思う。2012年4月頃までに元の馬込図書館前で「芥子の坊」がリニューアルオープンし、そのタイミングで「小芥子」は閉められたと記憶している。
その後「小芥子」のカウンターをそのまま使ってイタリア料理を出す居酒屋が入った。「clutch(クラッチ)」という店で、Facebook ページが残されていて2012年6月頃にはオープンしていたと思われる。そして 2018年2月一杯で閉店されるところまでポストが残っている。約6年の歴史。そのあとに「GOJYA」というバーが入り現在に至っている。空き店舗だった期間は短かったような気がするが実際「GOJYA」の Instagram アカウントを見ると翌々月の4月辺りにはオープンしていたらしい。
最後に「Lotta Lantern」の左側だが、三角形の角部分の狭い狭い店舗スペースがある。「塩瀬」でおこわを買った時、「巨栄食品」という精肉店が入っていて、焼き鳥だかホルモンだかを焼いていた記憶がある。隣にあった「塩瀬」が閉店しシャッターが閉まっている写真でも元気に営業しているのが左に少し見えている。割と最近、2016年4月30日まで営業されていた。下は閉店翌月5月に撮ったもの。
ここもしばらくは空き店舗のままだったかと思うが昨年だったか今年に入ってからだったか、「YAMATO」という弁当屋が入った。開いている時間が日中だけな気がする。
最近の夜帰宅する際に見ている風景。
昼前の光景。左手前からYAMATO、Lotta Lantern、GOJYA、丸吉、庚申公園。
大森・平田歯科クリニック、私のかかりつけ医について
左下の奥歯がなんの前触れもなく欠けてしまったのは今年の六月の初めのこと。すぐにかかりつけの大森・平田歯科クリニックに電話したのだが、つながらなかった。電話は鳴るのだが出られない。結局この時は東急荏原町駅前の別の歯科医に診ていただいた。特に痛みなど自覚症状はなかったのだが、欠けた箇所の奥が虫歯になっていたとのことで治療していただいた。同じように歯が欠けたので診てもらったら虫歯が……ということが過去に妻にもあったので、よくある症状なのかもしれない。その時妻を治療いただいたのも平田医師だった。
さて、この時に気になって大森駅前、西友の前のビルまで足を運んだところ休院を知らせる案内が貼り出させれているのを確認した。これが6月4日のことだったので、あと数日で復帰されるのか、もうちょっとずれていればな……などと思っていた。
つい数日前、10月24日のことだがデンタルフロスを入れていて、左下奥歯にフロスが挟まったまま切れてしまい取れなくなってしまった。6月に荏原町の歯科医で治療してもらった場所だ。同じ医院で診てもらえば良いのだが、平田医師に診てもらいたいとおもいお電話を入れた。すると今度は「おかけになった電話番号は現在使われておりません……」のメッセージが流れた。
これは、と思い再度大森駅前まで出て様子を見てきたのだが果たして医院が入居されていたビルの二階フロアは空になっているのが見え、案内板からも医院の名が消されていた。
医院はもともとすぐ近くの区営駐輪場の向かい、一階にはんこ屋さん21やブランド品店の「MOKAN」という店が入っているアトラスビルという建物の3階だったかに入っておられ医院名も「大森北一歯科」だった。最初に診察いただいたのは 2008年3月頃だったと思う。
以来年に一度か二度は診察いただいてきた。何もなくても歯石を除去はしていただく。一度行くと、もう一回か二回に分けて診ていただいて、また半年ぐらい後に歯石をみましょう、となって終わる。妻も診ていただいたことがあった。今年私がなったように歯が欠けてしまったと思ったら虫歯だった……というものだった。
大森北一歯科では歯科助手さんがいらした。ある時に「朝起きた時にも歯を磨くのが良いようですよ」とアドバイスいただいたのはこの歯科助手さんで、以来起床時にも歯を磨くのが私の習慣になっている。斯様に十年以上の長きに渡りお世話になってきた。
2017年だったか2018年だったか、移転の案内をはがきでいただいた。同じく大森駅前、西友の前にあるフォレスタビルという建物の二階。そちらの方で診ていただいたのが 2018年 7月。歯石を取っていただいた。
その時に気がついたのだが新しい歯科では歯科助手さんはおられず平田医師しかおられなかった。私が行った時がたまたま助手さんがおられないとかではなく、平田医師が一人で運営されているように見え、おひとりであれこれされるのは大変だな、と思っていた。私だけでも十年以上診ていただいたので、それなりのお歳ではあったはずだ。医院の運営がどうだったかなど分かるはずもないがまた診ていただける可能性は限りなく少ない事は分かった。残念ではあるが、平田先生にはこれまでの謝意が伝わらないものかな、と思っている。
馬込あたりの秋祭り 二〇一九
「祭礼に付車両通行止
春日橋交差点←→山王くらやみ坂下
一般自動車・路線バス
9月1日(日)
午後3時〜7時まで」
という、大森警察署からの立て看板が出ていることに気がついた。
例年のように近隣の秋祭り情報をまとめておく。逐次更新。
8月30日(金)・31日(土)・9月1日(日)
熊野神社
秋の例大祭の皮切りはメガドン・キホーテ向かい、善慶寺の背後の丘の上に鎮座する山王熊野神社様の例大祭となる。
春日神社
環七通り春日橋陸橋近くの春日神社は、秋祭りはもう少し後になるのではないかと思うが8月31日(土)夜に「納涼祭」をされるような貼り紙を見た。なおこちらの例大祭は6月だったはず。
池上本門寺
もはや秋祭りでないものも入れていく。
2004年から開催の野外ライブ。本門寺の本堂向かって右にある区画にステージを設営している。31日に会場の横を通ってきて知った。
9月7日(土)・8日(日)
旗岡八幡
東急大井町線荏原町駅前商店街にある伊豆屋酒店さんは、最近たまにしか行けていないが夜は角打ちも出来るので自分の憩いの場にしている。最近は奈良の春鹿超辛口を、とある理由で買いに行ったりしている。そういえば厚木のサンクトガーレンさんの Twitter アカウントで、伊豆屋酒店さんから注文が入ったってポストがあって秋の例大祭シーズンを知ったら年もあった。
9月14日(土)・15日(日)
馬込八幡
湯殿神社
例年近くの馬込八幡と合わせて秋祭りがある。そばの湯殿公園で土曜日に子供相撲大会があるのが恒例。
著作権的に大丈夫か若干心配。許諾取ってるよ……ね?
NHKエンタープライズ キャラクターページ | チコちゃんに叱られる!
北野神社
昨年と同じいらすとやデザイン。
例年通り、馬込八幡と同じ馬込にある湯殿神社、北野神社、熊野神社は同じ日程になっている、はず。
昨年まで北野神社としてのポスターも貼りだされているが、8月末日時点ではまだ見てない。
……と思っていたら9月1日に掲示された。これこれ、このポスター。
9月21日(土)・22日(日)
大森山王 日枝神社
9月21日(土)
なかのぶスキップロード
秋祭りではないが、中延の商店街でよさこい祭りをやるらしい。昨年はねぶた祭りをやっていた。
9月22日(日)
天祖神社
9月28日(土)
春日神社
過去に秋祭りについについて書いたもの
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2012年
2009年
2008年
北野神社の子供神輿の巡行ルート地図あり
2007年
2006年