椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

僕の中の棘

 普段穏やかそうに振舞ってる僕だけど実は心の中に棘を隠し持っているんだぜ、とかそういう感じの話ではなく本当に体内に棘的なものが見つかりましたというお話。

 

 話はいきなり1987年から1988年辺り、私が大阪市立大学に1〜2回生として在学していた頃に遡る。合気道部に所属していた私は稽古中に右親指付け根を痛めたことがあった。ただ歩けないほどではなく、当時まだ十代であったこともあり放っておいたら痛みは和らいで忘れてしまっていた。ただ、この痛みは時々起きるので良くは分からないが実は骨がどうかなっているとかあるかもしれないな、とは思っていた。

 

 子供が出来てからは道場に行くこともほぼなくなり、大田区合気道会で稽古を再開したのは長男が小学校にあがってそれまでに比べれば手がかからなくなってから、私は四十代になるところだった。すると時々、また右親指付け根を痛める。ある時にかかりつけの整骨院で相談したことがあったが、その時には「腫れてますよ。痛みが出た時には冷やすようにして下さい」とアドバイスいただいた。

 

 いよいよ痛みが取れなくなったのは五十を過ぎてからで、冷やしていっとき治ってもすぐに痛みが出る。時には普通に歩いている時でも痛みで立ち止まるようなことも起きるようになってきた。もう歳だし痛めたところは治りようもなくなってしまっているのかもしないと思っていたが、整形外科で診てもらうことにしたのが先々月の2月。思えばこの時にはまだ COVID-19 の感染についてはそんなに気にしていなかった。

 

 それはさておき、医師に「腫れてるね」と柔道整復師さんと同じことを言われたうえでレントゲンを撮ってみていただいた結果、説明された内容は思っていたのと違う内容だった。

 

『右親指の付け根の上に軟骨が飛び出てしまっている。飛び出た軟骨は棘のようなもので、普段は何もしないが指を上に反らせると「棘」が前の関節にぶつかってしまい痛めてしまうようになっている』……とのこと。この「棘」をそのまま「骨棘こつきょく」と言い、この症状を「強剛母趾きょうごうぼし」と呼ぶ。外反母趾はよく聞く病名だが、それと並んで足に起きる病態であるらしい。

 

 それを言われてはたと思い当たったのが、ずっと不思議に思っていた右足にある謎の出っ張り。

 

強剛母趾の足

 

 親指の付け根といってもちょっと甲側に寄った、痛みが出るところから離れた箇所だが飛び出ていて、触ってもそこ自体には別に痛みも何もない。そして皮膚の下にはすぐ骨があるように感じられるのをずっと不思議に思っていた。なんで片側だけここに骨があるのか。骨が折れたり割れたりしたら痛みがあるはずだが何故ないのか。これは軟骨だったわけだ。合気道の稽古の中で打ったりした結果として軟骨が出てしまったのか、人によっては普通に生活していてもこのように出てしまう場合があるのかはよく分からないので次に通院する時には聞いてみようと思う。いずれにせよ、こうなってしまうと飛び出た軟骨は固まってしまうのだそうだ。

 

 症状がひどくなると親指の関節をボルトで固めてしまい、親指が反って痛みが出ること自体を防止するような手術すら選択肢にあがってくるらしいのだが私の場合30年放置してきた割りに症状はまだ一番軽い段階であるとの診断だった。まずは靴底の薄い、柔軟性の高いような靴は履かず、ソールのしっかりした靴を履くこと。あとは鎮痛の塗り薬とロキソニンテープを処方していただいた。そういえば歩いているだけで痛みが出た時にはぺらぺらのスニーカーを履いていた時だった。靴に気をつけて、指を反らさないように歩こうと思う。

 

旧新井宿専売所

 池上通りを大田文化の森前で臼田坂の方に曲がって割とすぐ、東京都民銀行の向かいに「新井宿専売所」という文字を壁に掲げた古げな建物があった。2005年に東京にやってきた時点からこの建物はあり、実質店舗としては営業していない様子であることはその時点から東京都民銀行きらぼし銀行と名前を変えた今に至るまで変わっていなかった。(新聞の販売店だった場所か)と最初に見たときに思った記憶があるが、専売店などという古びた呼称をどこで聞いて覚えていたのか自分でもよく分からない。

 

 この新井宿専売所に解体工事の案内文書が貼り出されているのに気が付いたのは2月の初めだった。

 

旧新井宿専売所

 

 数日後には予定通りに解体工事が始まった。自分が撮った写真のストックを確認したがこの建物を撮った写真は出てこなかったので、ぎりぎりで解体直前の姿を撮れたことになる。運が良かったのかもしれない。

 

 ところで「新井宿専売所」で検索するとネット上には少し離れた住所を示す情報が見つかることに気がついた。池上通りを渡って、一本脇道に入ったところにある日本経済新聞の販売所で、看板には「ニュースサービス日経大田中央」とある。今の日経新聞売店は「ニュースサービス日経」、略称「NSN」で揃えられているらしい。さらに、日本経済新聞のサイトで専売店の情報を確認すると大田中央店は載っていない。看板はそのままなので前を通っても気がつかなかったがもう廃業してしまわれたらしい、と気がついた。おそらく旧新井宿専売所も同じオーナーさんの資産だったのかもしれず、現店舗を畳まれると同時に旧店舗も手放した……ということなのかもしれない。

 

 壊された旧新井宿専売所の土地は更地となっている。こんなに奥行きのない、箱のような建物だったのだなと思いながら前を通っている。

 

旧新井宿専売所、臼田坂下



馬込の失われた建物たちシリーズ

 

 

 

 

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

 馬込の失われた建物たち地図

ストロング系酎ハイの成分への疑義

 勤務先で年一回の人間ドックを受けられているのだが、昨夏の検査で肝臓の値が基準値を超えたということがあった。γ-GTP については十年以上高めの状況が続いているのだが、この度は GPT(ALT) の値も突然基準値を超えた。GOT(AST) も基準値内だが上がっている。いずれも肝臓に関する検査値ということになる。

 

 γ-GTP は肝臓をはじめとする臓器の細胞内に存在する酵素で、これが血液に出ているということは何らかの問題が臓器で起きているのではないかということになる。

 

γ-GTPは本来ならば細胞内に存在しているのだが、何らかの理由で細胞が破壊されたりしたことによって、血中へと遊離したことによって、この値は上昇する。また、ヒトなどでは特に疾患が無くともγ-GTPは血中から検出されるものの、疾患があると、その値は異常に上昇する場合がある。特に、胆道系疾患の胆嚢炎や胆道炎、さらに胆道閉塞などによって上昇する。また、肝臓疾患の肝ガンやアルコール性肝障害などによっても値が上昇する。このため、肝・胆道系疾患のスクリーニングのための検査項目の1つとして利用され得る。

γ-グルタミルトランスフェラーゼ - Wikipedia

 

 この値が高いため、人間ドックでの問診では毎度酒量を確認される。そのため酒を飲む日を減らしてきていて、四十歳を過ぎてからは週四日までとしてかつ二日続けて飲まない日を作るようにしていた。五十歳を迎えて以降は更に減らして週二、三日としている。それにも関わらず上昇、かつ ALT も異常値を示したので何が悪いのかにわかには分からなかった。γ-GTP が胆道についての異常を指し示すことが多いのに対し ALT(アラニンアミノ基転移酵素) の検査値の上昇は肝臓そのものに限定した病変の可能性を示すらしい。細胞内にあるはずの酵素が血液に多く漏出しているのは何か問題があるのでは無いか、という見方は γ-GTP と同じらしい。

 

逸脱酵素としての性質から、血清中のALT濃度は肝障害の程度の指標として利用される。肝細胞が破壊し尽くされるとむしろ流出量は低下する。肝臓の逸脱酵素としてALTとともに知られるAST(GOT)よりも特異性が高い(肝臓以外の障害では上がりにくい)が、ASTとの比率も臨床的に意義がある。

アラニンアミノ基転移酵素 - Wikipedia

 

 昨年の人間ドックの診断結果には半年程度で再検査を、という経過観察扱いとする旨が記載された。勤務先が費用負担して血液検査が出来ると分かったので先日2月初旬に検査を受けて来たのだが、漫然と再検査はしないとのお達しだったのであるものをやめて検査に臨むことにした。即ち

 

ストロングゼロ」と「99.99」を飲むのをやめる

 

 ことにした。いわゆるストロング系酎ハイ。そして検査結果が以下となる。

 

項目名

基準値

2016年7月

2017年7月

2018年8月

2019年7月

2020年2月

GOT(AST)

39以下

16

16

16

27

16

GPT(ALT)

39以下

22

19

20

45

24

γ-GTP

69以下

115

83

116

209

126

 

 今月の検査で ALT は基準値の範囲内に戻った。AST も下がった。γ-GTP は基準値を超えているがやはり下がっている。

 

 Twitter の自分のポスト履歴を見返してみると2017年中は「飲んだことがない」と明言している。そして2018年4月には「飲んだ」とポストしており、缶ビールレギュラー缶のあとの二本目に飲むという習慣がこの辺りから1年半ほどは続いたことになる。2018年8月の検査値で γ-GTP の検査値が少し上がっているのは飲み始めて3,4ヶ月で影響が出始めていたのかもしれないと思える。そして2019年11月あたりで飲むのをやめたので3ヶ月で改善結果が現れたものと推測したくなる。

 

 ストロング系酎ハイを原因として仮定した原因はいくつかあるのだが、そのひとつが精神科医の松本俊彦さんの Facebook での下記投稿だった。

 

結局あれは「お酒」というよりも、単に人工甘味料を加えたエチルアルコール=薬物なのです。そして、ジュースのような飲みやすさのせいで、ふだんお酒を飲まない人や、「自分は飲めない」と思い込んでいる人でもグイグイいけます。そうした人たちが、ビールの倍近い濃度のアルコールをビール並みかそれ以上の早いペースで摂取すればどうなるのか。ただでさえ人類最古にして最悪の薬物といわれているアルコールですが、その害を最大限に引き出す危険な摂取法です。

松本 俊彦 - ストロングZEROは「危険ドラッグ」として規制した方がよいのではないか。半ば本気でそう思うことがよくあ... | Facebook より

 

 上記引用の太字は私が附したもの。なるほど、と思うのだが私の身体に起こったことを鑑みると「高い濃度のアルコールを早いペースで摂取する」ことだけが検査数値に現れるような事象を起こしたのかについて少し疑問を持った。日本酒やワインなら、酎ハイとの飲む速さは縮まり、そしてアルコール度数は酎ハイに比べて高い。ストロング系酎ハイを辞めてからの三ヶ月ほど、荏原町の伊豆屋酒店で日本酒を買って飲んでいるので酒量としては著しく落としていないという印象なのだが、この検査結果が出ている。

 

人工甘味料を加えたエチルアルコール=薬物」自体が、醸造の結果得られるエチルアルコールとは異なるような、人体で処理するのに更に負荷がかかる特性を持っているなんていうことはないのだろうか。サントリーやサッポロをはじめとする大手酒造メーカー各位の製品にケチをつけるようで心苦しいのだが、私のような例が他にも無いのかきちんと調べてみてほしいと思うに至った。血液検査で同じようなことがあれば是非参考にしていただき、数値を共有いただければ幸い。

 

 

 

ある日の夢

 車を買う予定があり駐車場を探している。その日はかなり大きな、ショッピングセンターの駐車場みたいなところを見にきている。比較的上の方の階にいて、外が見える。

 

 突然、遠くで白く閃光があった。具体的な衝撃は感じていないが「爆弾が落ちた」と言う事実が頭の中にあって、自分が焼き出されたということを認識した。瓦礫の光景を見た気がする。焼き出されて、どこかに電車で移動することになった。今から考えるとJRのどの在来線でも、乗り馴れた近鉄電車でも、新幹線でもない。子供の頃に帰郷のたびに乗っていた、山口線山陰本線の古い車両みたいだったかもしれないし、もっと古かったかもしれない。ドラマの中で見た、戦後直後のような。

 

 電車はごとんごとん揺れている。ごとんごとん。ごとんごとん。がたがたがたがた! あれ? 電車にしては揺れが強過ぎないか?

 


 

 目が覚めた。大阪市城東区森之宮の、住宅公団の自分の部屋。15階建ての11階の北端から二番目の部屋。畳に薄い布団を敷いて寝ていた。最初に目に入ったものが何であるのかを理解するのに15秒ほど要したと思う。それは、本棚が床と梁との間で凄まじい勢いで上下にバウンドしている風景だった。あんなものはあの時にしか見たことはない。後で思ったことだが、この公団住宅を巨人が両腕で掴んで、もの凄い勢いで上下に揺すぶっているという感じだった。

 

 これは経験したことがない地震だ、と気がついたのがその15秒後だが、全く動くことができなかった。揺れがおさまってからふと横を見ると、車輪のついたテレビ台に乗せていたブラウン管テレビがこちらに少し寄ってきていて少しぞっとした。本棚については特に突っ張り棒などの耐震補強は施していなかったが、梁から数cmしかあいていない高さの本棚を買っていて、もし地震があっても梁に引っかかるのですぐに倒れてくることはないだろうと思っていた。実際に倒れてはこなかったが、もう少し長く揺れたら震動しながら前に移動してきて私の方に倒れてきたのかもしれなかった。

 

 テレビの電源を入れるとちゃんと映った。当時私は淀川を地下鉄御堂筋線で渡って通勤していたが、どうやら橋のどこかに破損の可能性があるとの情報があり、出勤は早々に諦めた。仕事場には電話は入れたが、自部署に出勤出来ていた人はいなかったような記憶がある。マシンインフラ周りの部署には、なんとか出勤している人もいるようだった。

 

 やがて高速道路が横倒しになっている映像がテレビ報道で映され、「長田」「深江」といった地名が出てきたので私はてっきりすぐそばを通っている阪神高速東大阪線が横倒しになったのだと勘違いした。私が生涯で経験したことがないと思った揺れはまだましな方で、淡路島が震源であり倒れたのは阪神高速神戸線であって神戸、特に西の方の被害はあんなものではなかったことが分かったのはあとのことだった。

 

 当日は公団住宅の前までは出たが、それ以上は出かけなかったと記憶している。コンビニエンスストアにも行かずに家にあるもので凌いだ。あとはひたすらラジオとテレビで流れてくる情報をみていた。奈良学園前の実家には連絡がつき、両親も妹も特に被害を受けていなかった。

 

 結局御堂筋線は動き出し、翌日には出勤した。当時のリーダーは「こんな時に仕事してもしゃあない。梅田に出て献血しようか」と言って、皆で献血しに行ったのを覚えている。

 


 

 これが 1995年1月17日、連休明けの火曜日の、私の記憶である。毎年震災の日が来ると思い出すが、ちゃんと書いたことがないことに気がついて文字にした。

 

大田区でのとんど焼き

 馬込にやってきたのは2005年だが、それまで大阪にいた時には正月のお飾りは千里中央 から中央環状を橋で渡ってちょっとのところにある上新田天神社に持っていっていた。上新田天神社のとんど焼きはとても壮麗な祭事で実際にお焚き上げの時にも楽しみにみに行っていた。

 

 2005年に大田区に移ってきて、翌2006年より東京での正月となった訳だが身近にとんど焼きが見つけられず苦労した。最初の数年は正月は実家のある山口県に帰っていてお飾りをしていなかったり、やむを得ず普通のごみのように廃棄してしまっていたかもしれない。六郷の、多摩川河川敷でやっているのはこの時から知っていたが、今に至るまで一度も行ったことがない。大田区も広くて少し遠いのと、子供が小さい時には思うように家族で動けないということもあった。

 

 2010年の正月明けにお飾りを持ってどこかにお納めしようと私ひとりで出かけたことがあった。最初どこを目指していたのか今となっては思い出せないのだが、東急池上線御嶽駅のそばに鎮座する御嶽神社でお焚き上げをされていることを偶然通りがかって知った。以降何年かは、御嶽神社にお詣りしてお飾りを納めるようになった。お詣りのあとは駅前の商店会を歩いていくのが常で、「リヨン麦の華」というベーカリーに寄ったり、「安信屋」という八百屋を覗いたり、ダイエー(今はイオンスタイル)に入ったり。

 

 御嶽神社がとんど焼きをやっておらず、急遽新丸子の日枝神社にお飾りを納めさせてもらったのが2016年。お焚き上げをされる寺社を探して車ですぐに行ける場所を探したのだった。昨年2019年までの四年間は丸子山王にお納めしていた。昨年は新丸子駅から夜歩いて行って寒かったのを思い出す。

 

 実は徳持でもとんど焼きがあるみたいだというのは以前から気がついていた。過去の Twitter のポストログを見返してみたら2012年に行きそびれた、と言っているので、それきり忘れてしまっていたらしい。

 

 かくして今年、2020年に徳持神社に行ってきた。なおネットで検索してもとんど焼きの日時について正確な情報が分からなかったので正月のうちに一度初詣に自転車で行ってきて確かめてきていた。今年は1月12日の日曜日、11時〜13時、とあった。

 

 1月12日は天気が良かったので自転車で出かけ、11時過ぎに徳持神社に着いた。まだとんど焼きは始まっておらず、拝殿への列に並んでお詣りする。12時からお焚き上げが始まった。

 

https://www.instagram.com/p/B7NJ27cgYqd/

 

 街中でどうやってお焚き上げするんだろうと思っていたのだがそうか、小屋を建ててその中で行うのか。ちなみにお飾りを火に投じているのは徳持神社の氏子の方々らしかったが、消防署からも人が詰めていて万が一のための消化の準備もされていた。

 

徳持神社 お焚き上げの準備

 

 11時過ぎの時点でお詣りの列とは別の列が出来て歩道に伸びていたがこれは境内でお汁粉と焼き芋を作って配られるのに並んでいた。これが12時を過ぎると神社と同じ池上通り沿いの、区画の角にある彩華と言うラーメン屋の前を過ぎて曲がり、毘沙門天様の境内の前までになった。並ぶ時間が長くなりそうだったので、こちらには並ばずに帰った。来年からはこちらにお世話になるかと。

 

徳持神社 お汁粉と焼き芋に並ぶ列

 

 

沖縄都市モノレール線「ゆいレール」から忘れ物を送ってもらった

 子供が沖縄に旅行に行ったことがあるのだが、帰ってくるなり帰りの那覇空港への移動中、モノレールの車内でお土産に買ったものの一部を忘れてきてしまった、という。移動中に自分でゆいレール那覇空港駅に電話し、忘れ物が届けられていることを確認していたのだが、翌日改めて那覇空港駅に電話して送っていただけないかご相談しようとすると今度は「届けられていない」と話しが変わってしまったという。

 

 こういった、問い合わせのやりとりが噛み合わないことで忘れ主が諦めてしまい結局取り戻せないような例も世の中にはあるのかもしれない。しかし、彼には幾多の忘れ物を取り戻してきた経験を持つ父親がいる。熟練の技を見せる時が来た。

 

 子供に落とした状況を再確認する。勤務の合間なので LINE でのやり取りである。

 

  • どこで乗ってどこで降りたか

  県庁前駅で乗車→沖縄空港駅で下車

  ※本来は何両目の何番目のドア辺りかまで伝えるのがベストだが今回は省略

  • 何時頃か

  14時から15時頃

  • 落し物はどのような見た目か 

  白いビニール袋(レジ袋の類ではなく、しっかりした感じ)に購入したトートバッグが入っている/ピンク色っぽいビニール袋に購入したちんすこうの箱が入っている

  • 問い合わせた際の担当者名*1

  控えていない 

 

 並行してゆいレールのウェブサイトを確認する。「ゆいレール 遺失物」で検索。問い合わせ先の情報を参照する。遺失物は沖縄空港駅、てだこ浦西駅、県庁前駅のいずれかに届けられる。ページの下方に問い合わせフォームがあることを確認。電話での問い合わせは子供がやっているので、まずメールで正確な情報を伝えることとする。こんな感じの文章を送った。ポイントは当たり前のようだけど、日時と忘れた場所、見た目を具体的に伝えること。保管していただいた駅の方の視点で探してもらえるように伝えること。

 

◯月△日旅行で沖縄を訪れている際に利用させていただきました。
14時~15時頃県庁前駅から那覇空港駅まで乗っています。
その際に忘れ物をしてしまいました。
昨日那覇空港駅に問合せた時点では「届けられている」との回答だったのですが、本日同じく那覇空港駅に再度電話したところ「届けられていない」と回答が変わってしまいました。
改めてご確認いただけないか、ご相談させていただきます。
忘れたものは下記二点になります。

1. 白いビニール袋で内容はトートバッグ
2. ピンク色の袋で内容はちんすこう

 

 問い合わせ時に入力したメールアドレスには入力内容確認のメールが送られてこない、送りっぱなしのメールフォームらしい。問い合わせフォームとしては、あまりよろしくない。メールアドレスを入力間違えしていないだろうな……と思いつつ数時間待つ。翌日まで対応を繰り越しても良いのだが、なんとなく鉄道会社としての対応の青さが見えてきたので数時間後に沖縄空港駅に電話をし、メールフォームで送ったのと同じ内容を電話で伝えた。

 

 すると「今朝お電話いただいたのも認識がございます。実はトートバッグの忘れ物、と確認されたので届いていないと回答してしまいました。白いビニール袋ならば届けられておりまして、てだこ浦西駅で保管しています」との回答を得た。なるほど、今回は視点の違いからくる勘違いだった。トートバッグの方だが、実は誰に贈るかが明確に決まっていたものだった。だから子供は無意識に「トートバッグの忘れ物」と伝えてしまい、駅員さんは「トートバッグそのものの忘れ物」と聴き取ってしまったのだろう。

 

 続けててだこ浦西駅に電話し、やはり同じ内容を伝えて保管されている旨の回答を得た。ただ、間違いなく落とし主かの確認が必要とのごもっともなお話があり、担当の方のお名前を伺い子供に LINE でご担当名も含めた連絡先と何を話せば良いかを書いて送った。本人から再度電話し、無事確認がが取れ、着払いで送っていただけることとなったと横で聞いていた妻から報告があった。

 

 これで一件落着のはずだったが、翌日になってメール問い合わせの方に回答が返ってきた。返ってきたのは良いのだが「ご質問の遺失物は届けられておりません」と返ってきた。やれやれ。

 

 私は昨日の電話での確認状況を返信に書いた。そして電話での問い合わせの内容が食い違ったのは理由があったことと分かったが、間違いがないようにとメールで問い合わせたのに何故また回答が食い違ったのでしょうか、と書いて送った。嫌な客だ。

 

 今度は数時間後に返信があり、沖縄空港駅と県庁前駅とだけ確認を取っていたため正確な状況がご回答できていなかった、との説明があった。この返信の時点で忘れ物は着払いの宅急便で届いており、送り状と受け取った旨を知らせる返信票が同封されていた。送り状には遺失物番号が記載されているので一元管理する考え自体は沖縄都市モノレールは持たれているのだろうが、管理場所を三箇所設定しているのに各場所に届けられた遺失物情報には簡単にアクセスできないようになってらしく思われる。関東の私鉄だと東急電鉄は各線ごとに遺失物の集約駅が定められているのだが、その代わり検索システムがあり、集約駅以外でも参照可能なようだ。私は最寄りの大井町線荏原町駅で手袋だったかを探してもらった時、その場で検索して下さったのを見た記憶がある。そこまで難しいことをしなくても、ゆいレールの駅数であれば Google Driveスプレッドシートで共有するだけでも良いのではないだろうか。

 

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 今回自分が沖縄に行けたわけではないので「photock」というサービスでゆいレールの無料画像をダウンロードさせていただくなど。いつか沖縄にも行きたい。

 

「落とし物を取りに行ってきた」シリーズ







 

mukunokiyasuo.hatenablog.com

*1:相手の名前まで確認する、というのは私の仕事上の鉄則のひとつでもある。会社間での問い合わせでも、名前を確認していないまま「先ほどこのように伝えたはず」と話を進めようとされる方は世に多い。実際は他部署どころか他の会社と話しておられたのに勘違いしているような例すらある。問い合わせをする方も受ける方も相手の方の名を押さえておくだけで話の食い違いを防げるし、相手の無責任な言動を抑制できる場合もある。

渡邉信之師範について私が知らなかったこと

 1980年代に「Do!スポーツ」という番組がテレビ東京系列で放送されていた。私が奈良市立二名中学校、奈良学園高校、大阪市立大学に在学していた十代だった頃の番組で、「なんで Play sports やないねん」 などとツッこんでいたことを思い出す。

 

ja.wikipedia.org

 

 マイナースポーツを取り上げる番組、というイメージがあった記憶がある。 上記 Wikipedia の記事は2019年12月時点で出典が示されていないようだが、ある程度正しいと仮定して読むとモータースポーツ、アウトドアスポーツの回が圧倒的に多いようだが時々武道・格闘技の回がある。合気道は二回、取り上げられている。

 

 二回目が私が大阪市立大学に入学し、合気道部に入部した 1987 年の放送で「極技空気投げ合気の世界」というタイトルである。私はその放送をVHSテープに録画したものを誰かに見せてもらっているはずである。動画検索を試みたが残念ながら見つけられなかったが、微かな記憶では渡邉信之師範が演武をされていたのを覚えている。それは座法で一教の抑えをされる映像を見た記憶なのだが(えっ)と思ったのを覚えている。文字にしてしまうと「渡邉師範は受けに触っていないのに受けは一教で抑えられた」という映像を見たのだ。

 

 Youtube で、公式のものではないが、その雰囲気が分かる動画あった。一教(と思われる)場面の静止画像と合わせて掲示する。時期が書かれていないが、背後に飾ってある写真が植芝吉祥丸前道主のものであるとしたら1999年頃の全国合気道演武大会だろうか。

 


【合気会】渡邉信之師範【八段】

 

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 当時の私の師範は阿部醒石先生だが、大学生時代はあまり稽古をつけていただく機会がなかった。ただ一回生の時に創部二十周年記念式典があり、その際に阿部先生の説明演武を見ている*1。阿部先生も時に触れる前に制したり投げたりを演武でされることがあった。つまり私はそういう技の現れ方もあり得ると考えるような主観の持ち主なのだが、その私ですら渡邉師範の演武は(また少し違うようだ)と感じていた。今改めて上記の演武を見ると「ああ、これは導かれるな、分かるな」と思う技と「これは受け(受け身ではなく)を取り過ぎではないかな、自分だと違う受けになるのではないかな」と思う技の両方があるように感じる。

 


Seiseki Abe sensei

 

 渡邉師範は今年、2019年8月20日に逝去された。 それを受けて大田区合気道会でも渡邉師範の指導を参考にした稽古をすることがあった。渡邉師範が整骨院を経営され、人体の仕組みにも造詣が深くそれが指導にも現れている……というようなことも知ることが出来た。

 

 整骨院と柔道の道場が一緒にあるような例は時々見かける。柔道創始者嘉納治五郎先生は最初柳生心眼流、次に天神真楊流に入門されているが、昔読んだ子供向けの嘉納先生の伝記では「骨接ぎの看板を掲げた家の門をいきなり叩いて柔術を教えてもらえぬか尋ね、入門を認めてもらった」というような書き方がされていた記憶がある。

 

 合気道の師範でも柔道整復師の資格を取られている方や、それ以外の整体技術を習得されている方も結構おられるのかもしれないが、意外と耳にする機会が少ない。子母澤寛さんの随筆で「砂泊さんという合気道の名手に肩が張るのを見てもらっている」という記述をみつけて軽く驚いたのは少ない事例のひとつだったりする。

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 渡邉師範は磯谷いそがい公良氏が戦後間もなく創始した磯谷療法をまず学ばれたらしい。股関節の調整を重視するかも手法とのこと。この辺りの身体の仕組みと技との関係という理解についての詳細は渡邉師範のお弟子さんには引き継がれているのかもしれないが、合気道関係でそういった側面について記載している書籍や記事を今のところ見つけられていない。磯谷療法に携わっている方がネット上で公開されている記事がいくつかあって辛うじて概要がわかる程度だった。そのため渡邉師範について私のように「触らない技を演武でされる先生」とだけ思っているような不届き者は実は結構いるのではないだろうか。

 

 渡邉師範がどの様に学ばれ、その結果を稽古に反映されていて、その結果が演武にどのように現れるのかということはこれから様々な稽古の現場でなされるのであり、今回私も大田区合気道会の稽古でその一端に触れたのかもしれない。

 


2011年3月26日 渡邉信之師範 本部道場最終稽古 (抜粋) Mar 26, 2011 Nobuyuki Watanabe sensei's Final Class@Hombu Dojo

 

*1:私が卒業した後に阿部先生が道場に来られる回数が増え、ご指導いただく機会が増えることになる