子母沢寛さんと合気道の名手

 次に執筆するテーマを今住んでいる馬込に定めて、昨年後半から準備をしている。準備、というのはひたすら馬込に関連しそうな本を読むことなのだが、勤務に関係して試験をふたつ受けるなどしているので当初自分で設定した予定からだいぶ遅れているようでひとりで焦っている。

 先週から子母沢寛さんを読み始めた。子母沢寛さんは大森日赤病院の近く、新井宿子母沢という付近に住んでいらした。子母沢は終戦辺りまで住んでいらしたその字から取ったペンネームになる。

 私は実はこれまで『新選組始末記』も読んでいない。子母沢さんは彰義隊に参加していた祖父に育てられ、薩長新政府への恨み辛みを聞いて育ったので長州にも憎しみのこもった厳しいことばを吐いて居られたと司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の『長州路』で読んで以来、自分も長州人だと思っているものでどうも近寄りがたく敬遠していた。

 いま馬込図書館で借りて読んでいるのは『愛猿記』。六興出版というところから出ているハードカバーで、子母沢さんが飼った動物について書いた随筆を集めたもの。現在は文庫化されているようだ。これを読んで、子母沢寛さんへの印象というものが一変してしまった。

愛猿記 (文春文庫)

愛猿記 (文春文庫)

 子母沢さんは日本猿や犬を飼っていらしたのだが、猿については他が持て余すような暴れ猿でも子母沢さんにはすぐ懐いたという。そうして飼った猿について愛情を込めて書かれていて、特に猿が亡くなった時に葬る際の悔やみごとを言われる箇所は心を打たれるものがあった。私の頭のなかで四角くこちらを睨んでいるような印象だったのが溶けていくように思いながら読み返した。奥様も糞尿の始末やものを破いたりの狼藉に苦労されても子母澤さんが次の猿を飼うのを認めておられるようなので、動物を家族とおもっておられたご夫婦のようにお見受けする。

 実は『愛猿記』には探していたような記述は見つけられなかった。ただ、収録されている随筆のうち『愛猿記』『猿を捨てに』『ジロの一生』は新井宿に住んでおられる時代のことを書いておられるようだと分かり、興味深く読んだ。『ジロの一生』もとても印象に残る文章で、ジロの最後をみとる箇所はなんともいえない気分になった。なお、家を出て大森駅付近に居るようになった犬のジロを連れて帰ろうとすると、御宅の近くの蕎麦屋まではついてくるがそこで必ず帰ってしまったというのだが、この蕎麦屋は今も観音通り商店街の入り口向かいにある「寿々喜」さんだろうか。

 ところで、これを書き始めたのは同じく収録されている『悪猿行状』を読んでのことである。『悪猿行状』は子母沢さんが終戦鵠沼に移住されたあとに飼われた猿、三ちゃんのお話しである。三ちゃんは腕が悪かったようで子母沢さんが心配して医者に見せたりいろいろするのだが、以下の下りを読んできょとんとしてしまった。

 よく肩を張らせるわたし達夫婦が治療をして貰う鹿児島の人で砂泊さんという方が近くにいられる。合気道の名手で、その道から生まれた健康法だが、一度思い切って、
「猿を診てくれませんか」
 と言ってみた。砂泊さんはいろいろ話をきいてから、
「そんなに痩せたというんなら何処か関節が脱れているんでしょう」
 という。ここでこれ迄大騒ぎをした小児麻痺は転じて脱臼にあらざるやという新しい問題になった。砂泊さんの説によれば、人間でもそうだが、何処か一箇所脱臼すれば、どんなに滋養をとっても、その脱臼が戻らん間はどんどん痩せて行くものだという。

『悪猿行状』子母沢寛 より

 ……鹿児島出身で合気道を稽古されていて砂泊さんといえば、合気道をやっているものならば誰でも万世館の砂泊諴秀師範を思い出すかとおもう。はて、砂泊師範が神奈川で整骨もやりつつ稽古されていたというようなことがあったのだろうか。植芝盛平翁先生存命中までは合気会に所属しておられたはずだから、関東に居られた時期があったとはおもう。またお兄さんの砂泊兼基さんも同様に稽古をされていたからあるいは兼基さんの事なのだろうか。それともまた別の砂泊氏がおられたのか。

植芝盛平合気道』を読み返したら、砂泊諴秀師範は軍隊に取られるまでは「東京にいた」と言われているが、戦後についてははっきり話に出てこない。ちょっと興味があるのだが、そちらを調べるような余裕がない。いずれ砂泊師範の年譜といったものがないか漁ってみたいとおもう。

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

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武の真人―合気道開祖植芝盛平伝

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