椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

合気道において結びとは何か

 6月16日の日曜日に足立区綾瀬の東京武道館で開催された、東京都合気道連盟の錬成稽古に参加してきた。指導は入江嘉信師範で二百名弱が参加していた。

 

 稽古の最初の挨拶の際に入江師範は「最近稽古している『結び』と『吸収』についてお話ししたいと思います」ということを仰った。実際の稽古の中で「結び」や「吸収」について具体的に「これだ」ということは説明されなかったのだが、読み取ればここで仰っているのがそうだな、ということは感じられた。

 

 稽古後の更衣室で同じ道場の方同士の会話で「吸収っていうのは分かったけど結びってのが分からなかった」という声があって、それはとても良い問題提起だと思った。「結び」という言葉は合気道では良く使うけれど、実は人によって定義にブレがあるかもしれないと気がついたからだ。

 

「むすび【結び】」を棚にある小学館の国語大辞典でひくとこんな感じである。

 

1. 紐状のものをからみ合せ、巻き込んでつなぐこと。また、そのような状態にしたもの。

2. 両手で水をすくうこと

3. 飯を両手で握り固めたもの。にぎりめし。

4. 焼き飯をいう。女房詞。

5. 人と人とを関係づけて、親しくさせること。

6. 文章、物語などの終わり。結末。

7. 文法で、係り結びの係助詞と呼応して、文を終わらせる語法をいう。

8. 集合における「ジョイン」

 

 どれも厳密にいうと合気道において言う「結び」にはぴたりとは該当せず、敢えて言えば五番目が一番近い。正面打ちを打ち込むのではなく、手刀を合わせた状態から稽古することがあるが、それを「気結び」と呼ぶ場合がある。また、組太刀の基本に「気結びの太刀」がある。以下齋藤守弘師範の模範。

 


【合気道】組太刀の極意【斉藤守弘師範】

 

 これらを受け取って稽古をしてきた私の「結び」の定義は「相手と調和した状態で相対すること」だろうかと何となく、思っていた。例えば私がこう定義したとして、師範の先生方がどう言われるか。そんなにずれることがないかもしれないが、微妙に異なる定義が出てくるかもしれない。もしかしたら、「それは言葉で定義することではない」とかいう意見が出てくることすらあるかもしれない。

 

 取り急ぎ探してみると、菅沼守人師範と遠藤征四郎が指導されている公開動画で、「結び」と言う言葉が出てくるものを見つけた。おふたりとも植芝盛平翁先生の最晩年の内弟子だが偶然だろうか。

 


菅沼守人先生・合気道"結び"の実演2011_11_19

 

 菅沼師範が説明されているのは、片手持ち、あるいは単に掌を合わせた状態で相手との力の方向を合わせた状態のことを「結び」と呼んでおられるように読み取れる。

 

 


Atari and Musubi 07_Seishiro Endo Shihan 当たりと結び07_遠藤征四郎 師範

 

 遠藤師範は、相手が安定した状態で腕を曲げている時、その拳に上から掌を乗せて、そこから合わせて相手を導くことができる、と言うことを説明されている。動画中においては遠藤師範のお話しに「結び」と言う言葉は出てこないが、タイトルが「Atari and Musubi」となっていることから動画前後において「当たり、とはこういうこと、結び、とはこういうこと」とご説明があったのではないかと推測される。相手の拳について上への力に合わせるように(掌で上から押さえるとそれに対して堪えようとする。その力のことを仰っていると思う)ご説明されている、その部分が「結び」になるのではないだろうか。となると、菅沼師範と近いところを「結び」と表現されているように思える。

 

 先ほど掲げた私の定義の範囲内であるとも言えるのだが、実は私としては菅沼師範や遠藤師範が示されているより前の、例えば片手を持った状態、拳に掌を合わせた状態のところを「結び」と捉えるところがあり、先生方の方が「結び」にあたるところが広いように感じている。

 

 ではそもそも開祖はどう仰っていたんだろうと思い、植芝盛平翁先生の口述を何冊が本棚から取り出してきて読み返してみた。主に次の三冊。

 

合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

 

 

武産合気

武産合気

 

 

合気道

合気道

 

 

 読みはじめてすぐに思い出したのだが、翁先生が上記の本など晩年の口述において、技の基本について触れるはほとんどない。稽古修行することでひいては世の中をどう良くしていくのか、禊における考え方、古事記など神話に描かれている内容をどう読み解くのか、と言うお話しが主となっている。今回知りたい意図での「結び」についての言及には行き当たらないのだが、それでもちょっと面白いことに気がついた。

 

『合気神髄』は道場における植芝盛平翁先生のお話しを筆録したものであろうと思うのだが、「結び」が頻出している。何箇所か引用する。下線は引用者がつけた。

 

 合気は宇宙組織の玉のひびきをいうのであります。すなわち全大宇宙のことで、小さなことをやっているのではないのです。教育者や年輩者は率先して武道の実践をしなければならないと思います。この道は全部、天に学び、地に学び、宇宙の中心に結んで、また、我々は宇宙とともに進んで、その上に自己の息で全部結ぶことをやり遂げていくのであります。

 我々は魂の気の育成と、また、立て直しをしなければいけません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の身の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲良く和と統一に結んでいくのです。これからはいうまでもなく戦争をしてはいけない。喧嘩争いはしないこと。すべては結びでやる。それがないと本当の強さは出てきません。それでないと皆さんの稽古が無駄になってしまうのです。

第1章 合気道は魂の学び より 

 

「気の妙用」は、呼吸を微妙に変化さす生親いくおやである。これが武(愛)の本源である。

「気の妙用」によって、心身を統一して、合気道を行ずると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。この呼吸の変化は、宇宙に気結び生産いくむすび、そして緒結びされる。

 また、呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。

 こうなって、初めて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。

 第4章 合気は息の妙法なり より

 

 合気は和と統一に結んでいくのである。梅と松の仕組みである松竹梅の教え。これは何億万年前の昔からの仕事である。これは艮の金神の神の御教え、そして小戸の神業で、真人養成の道である。ホノサワケの島。天の浮島というのは「ア」は自ら、「メ」は巡るといい、自ら巡るというのが天の、浮島の方は……二つのものが水火結んでいく、霊界も顕界も一つにする。

第6章 合気とは禊である より

 

 これらは私が目についたページを引用しただけで、他にも頻出している。

 

 一方で、同じく口述筆記本である『武産合気』でも「結び」の語は出てくるのだが、かなり少ない、というのが今回気がついたことで、『合気神髄』と何が違うのか、ということになる。『武産合気』は白光真宏会の髙橋英雄さんが筆記されたもので、五井昌久さんと植芝盛平翁先生が親しかったことから口述筆記が実現している。つまり『武産合気』では翁先生は髙橋さんがおられる前提でお話しされている、というところに違いがある。「合気道とはこういうものです」ということを稽古していないひとに説明されているのと、五井昌久先生のもとで信仰の道にあるのと合気道の稽古しているのと共通する、大きな目標のようなものについて語られている部分とがあるように読める。となると例え概念的なお話をされていたのであっても「稽古において相手と向き合っている」という具体的な状況を前提に説明する場合において「結び」ということばを使う必要があった、ということは言える気がする。

 

 技において「結び」ということばが使われかを知るために三冊目の『合気道』も読んだ。本当は『武道』にあたるべきなのだろうが、これは市販されているような書物ではない。直弟子の師範の方にお持ちである方がおられるという、免許皆伝書に近いようなもので、齋藤守弘師範は必ずこれを携行されてご自分の説明と合っているか、というのを稽古参加者と共有されるのに使われていた。他にもお持ちであるという師範のお話しを聞いたことはあるが、公にされていなかったりするのでここではお名前を挙げない……などという配慮が必要な書物であり、棚にある植芝吉祥丸前道主のこの著書に当たった。残念ながら全く出てきておらず、「結びとは」というようなことについては口述でしか説明はされなかったのではないかと推測せざるを得ないという結論になった。

 

 という自分なりの「結び」についての研究を経たうえで改めて入江師範の演武動画を見させていただいている。なお「吸収」についてだけれど、相手と「結んだ」状態から相手に近づく際に、力が入ったままだとぶつかって跳ね返されたりする。そうならぬよう相手に近づくには、相手と「結んだ」まま、自分は力を抜いて相手の力をもらいつつ動くようになる。その動きのことを仰られていると理解している。

 


IRIE Yoshinobu - 57th All Japan Aikido Demonstration 2019