椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

大雪の日の東急バス

  1月22日の大雪の日、少し早め、16時台に退勤して、既に一部電車に影響が出ていたのだがうまいこと最寄駅の東急荏原町駅まで帰ってこれた。やれやれと思い、あとはバスで最寄りのバス停まで行けば良いと思っていたのだがそうは行かなかったのでちょっと書いておきたい。

 

 バス停についた時、前のバスが出で間もないのかまだ人が二、三人待っているだけだったのだがこれが列が伸びてもなかなか次のバスが来ない、という事態となった。ここで困ったのが、東急バスナビがダウンしたことだった。

 

 東急バスの位置情報サービスは使い勝手が良くドコモの i-mode 時代から日常的に使っている。携帯を iPhone に変えてしばらくは、i-mode 向けあるいは一般ブラウザ向けの表示が合わなかったのでしばらく使わなかった時期があったが、いつのまにかスマートフォン対応して今に至っている。この日は普段より利用者が多かったのか、東急で移動している車内で確認している時点で既にレスポンスが無くなっていた。結局サービスが復活しているのを確認したのは帰宅後、21時を回っていて、その場ではバスがどうなっているのか確認する術がなかった。

 

 結果から言うと環七通りで故障車が出るなどあったようで東急バスが環七を通るルートを全て止めていた。翌朝もまだ動いておらず、地下鉄浅草線馬込駅までしか出られなかったぐらいで、当日中はバスが来るはずもなかったということがあとで分かった。Twitter などもできる範囲でチェックしていたが、片手に傘を持ち、肩にカバンをさげているが実は間の悪いことに iPhone のバッテリーが心もとなくなっており、携帯バッテリーにつないでいたがケーブルの調子が悪く思うように充電できない、更には雪が降り続くので傘がどんどん重くなってくる……と非常に不自由な状況であったものでストレスが溜まる状態だった。

 

 30分ほど待っていったんバス待ちの行列から離れ、荏原町駅に近い方、屋根のあるところに戻ってタクシーが来ないか待ったが普段と違いなかなか来ない。仕方ないと使い捨てカイロを追加装備して、さあ歩くかと立ち上がった時にちょうどタクシーが来て乗せてもらうことが出来た。

 

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 さて、東急バスさんだが、当日早い段階で運行情報はホームページで発信、Twitter では行わないとの通知があらかじめされていた。

 

 

  限られた人員で運行するとなれば、発信方法を制限して臨むのは選択肢としてあって良いところではないかとおもう。ただ、サイトがダウンしたあともその方針を変えていない。これは反省すべき点ではなかったかとおもう。この雪だからもしかしたら運行に支障が出ているかもしれないとは当然おもうし、実際その前提で行動を変えたのだけれど、列を離れた時点で荏原町駅入り口の停留所だけで15名から20名ほどの方が待っておられた。

 

 最後にもうひとつ不満を持っているのが、私が列を離れた際に東急バスの職員と思しき男性が一人、バス停の近くの角に立っていたことだった。私も列を離れるまでそのひとが立っているのに気がつかなかったが、ただ黙って、乗客の列を気にするでもなく立っておられた。東急バスの職員の方ですか、運行状況はどうなっていますか、と聞くべきだったのだが、上記の通り私も30分待って疲弊していて、もういいやと歩き去ってしまった。サイトがダウンして運行状況が出せない、Twitter でも発信しないのであれば人力で案内することは出来なかったのだろうか。その場にいても社内情報も難しい状況で、単に餓鬼の使い的に居られただけだったのだろうか。

 

 今週また雪になるかもしれないとの予報でもあり、大変なバス運行をされたことには敬意を表するが、反省点もあったことは是非とも共有いただきたい、

 

消えたスリーエフ

 馬込銀座の商店街に q's マートというコンビニエンスストアがあった。あまり他ではみかけないので小規模なチェーンストアなのかと思っていたが、スリーエフが展開する低価格帯のコンビニだったらしい。駄菓子系の商品があったので駄菓子屋の代わりに 子供達が小学生ぐらいまでは時々行っていた。

 

 昨年11月9日に西大井の方に定期通院してきた帰りに前を通ったら看板が変わって、ローソンとスリーエフの合同店舗に変わっていた。ちょうど開店直後のようだった。

 

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 帰宅してから調べてみて q's マートがスリーエフの運営だったと知ったわけだが、昨年からこの近辺にあるスリーエフ2店舗がいずれも閉店して空き店舗になっており、それは全店舗について新装開店か閉店がいずれかの措置が取られていたものだということにも気がついた。

 

toyokeizai.net

 

 そのうち1店は荏原町商店街の入り口にあった店舗で、以前レジで失礼な接客をされたことがあり、立ち寄ることがなくなっていたのでどうという感慨も抱かなかった。そういえばそれ以前にもオーナーと思われる男性がスリーエフのスーパバイザーらしきひととやりとりしている時の話しようが横柄で、なんとなく好感を持てない感じだった。

 

 もう1店は東海道新幹線第二京浜道が馬込で交差する箇所にかかっている馬込橋のそばにあって、こちらは仕事からの帰りに時々使っていたので閉めてしまったのは少し残念だった。そういえばこの店の自動ドアの前あたりにいつもいる猫がいたが、閉店になってからは一度も姿を見ていない。人が来なくなって寄り付かなくなったのか、あるいは店のオーナーの飼い猫でもあったのか。そちらの方を気にしたりしている。前述の通りどちらの店舗もシャッターが閉められたままでしばらく経過しておりどちらも経営的には近隣の他のコンビニエンス・ストアに押されて苦しかったものかと思われる。

 

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南馬込のよしかね

 昨年末、 12月22日の金曜日の朝に南馬込のバス通り、臼田坂上のまだ先を通った時に馬込南台の交番の隣にある「よしかね」という店が「閉店セール」という貼り紙を出していたのに気がついた。私が馬込に来た2005年以来ずっとある店で、チェーンのコンビニエンス・ストアでないながら深夜0時頃まで開いていてたまに利用することがあった。ここ数年は、21時頃には閉店している時もあって営業時間を変えたのかな、ぐらいにおもってみていた。更にはここ数日、店の前に出していた飲料などの棚がないので気にしていたが閉店セールに入っていたものらしい。そんなに客が入っているように見えないし、営業的には厳しい状態が続いていたのかもしれない。

 

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 同じバス通り沿いのすぐ近くにセブンイレブンがある(「よろずや」の屋号が入り口に印字してあってこちらも古くから商売されているらしい)のだが、うちの次男はこの「よしかね」の方に週刊少年ジャンプを買いにいくのを常としていた。これからはセブンイレブンに買いに行くことになるかと思っていたら同じオーナーが経営している隣の「ふらんせよしかね」というクリーニング店でお米と雑誌だけは扱うらしい。クリーニング店の方は休み時間が長くて使い物になるか微妙らしいが。

 

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  これでいわゆるコミュニティストアというか、バラエティストアというか、コンビニエンス・ストア以外のなんでも屋はこの12年ほどで私が知っているだけでも3店舗、なくなった。あと2店舗は同じくバス通り沿いの臼田坂上辺りにあった「コニーマート」と、「よしかね」の前のT字路をまっすぐ環七通りの方に下りて行った先にあった「まるはちや」で、それぞれのことは書いている。末尾参照。

 

 同様の業態ではきたのこばと公園の近くの三正さんしょう商店がある。他のコンビニエンス・ストアから微妙に距離があるので使うひとがいるのか、配達などの需要があるのか、よくは分からないがこの際なのでまだまだがんばって欲しいなどと勝手におもう。

 

 

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學天則、あるいは豊中の三義塚について

 大阪市立科学館に學天則の復元が展示されているというニュースを目にして、ああ大阪らしくて良い、とおもった。

 

thepage.jp

 

 學天則は西村真琴が製作した「ロボット」というか、からくり人形というか……というものだ。そういえば西村真琴さんのことを昔書いたことがあったな、と Evernote のなかを探したら2004年12月16日の木曜日の出来事を書いたブログ記事が見つかった。今年高校にあがる長男がまだ二歳のころにドリコムブログに書いていたもので、ドリコムがゲーム開発会社になっていく過程でブログサービスはライブドアに譲渡され、最終的には消滅して今は自分の手元にしか残っていなかった文章。リンク切れや文章の足りないところなど書き直してみることにした。

 

 一昨日、曽根の豊中市民会館に、次男のツベルクリン反応判定と、BCG接種に行った。

 

 待っている間、長男と辺りを散歩していたら、「三義塚」という小さな石塚と、立派な石碑があるのが目に留まった。おそらく「さんぎづか」と読むのだろう。この辺りはよく行き来した場所になるが、初めて気が付いた。

 

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 そばに設けられた説明板によると「三義」というのは鳩の名前で、西村真琴さんという人物が第一次上海事変の直後に奉仕団を率いて中国上海を訪問した際、弱った鳩を助けて日本まで連れて帰った、その鳩を「三義」と呼んで育てていたそうだ。第一次上海事変は1932年、満州事変の翌年に上海共同租界近辺で勃発した軍事衝突事件で、満州事変の端緒である柳条湖事件が日本軍側が中国側の犯行であることを装って工作したものであることと同様に日本人僧侶襲撃事件などをきっかけに発生した。西村さんは当時そのような謀略についてはご存知なかったはずだが行動力のあった方だったことはこの一事においても分かる。

 

 さて鳩の三義だが回復して日本で元気に暮らしていたがイタチに襲われて命を落としてしまった。近所のひとが墓を立てたのが「三義塚」である。

 写真の後ろの石碑は、魯迅漢詩を刻んである。三義にもし子供が出来たらそれを上海に送って中国と日本の友好の証としたい……と考えていた西村さんが、三義の死までの経緯を上海在住の魯迅に書き送ったところその返信にて『三義塔に題す』という詩を贈られた。その詩が刻まれている。

 

 魯迅と手紙のやりとりをする、西村真琴という人物がはて何者か、調べてみてすぐに学天則を作った人物だ、と知って感嘆することとなった。そういえばご子息である故西村晃さんは、映画『帝都物語』で父親の役をされていたのを見て、映画の出来は別として、印象に残ったのをおぼえている。

 

 西村真琴さんがの実績は多岐分野に渡っている。文系だの理系だの関係ない才能であったらしい。あらゆる方面において草創期であった時代ならではの活躍ぶりといえるのかもしれない。

 

  • 1911年(明治44)から1915年(大正4)満州にて南満医学堂教授、生物調査に従事
  • 1915年(大正4)よりアメリカに私費留学、ニューヨーク市自然史科学博物館で爬虫類や植物の調査に従事
  • 1921年(大正10)から1927年(昭和2)まで北海道帝国大学付属水産専門部教授
  • 札幌の文芸誌『さとぽろ』の編集長を務める
  • 1927年(昭和2) 阿寒湖のマリモの研究により東京帝国大学より理学博士号を取得、マリモの保護活動に功績を残す
  • 同じく1927年北海道帝国大学を退官し大阪毎日新聞社入社、翌年「學天則」を製作し京都博覧会に出品
  • 1932年(昭和7)  第一次上海事変の直後に奉仕団を率いて中国上海を訪問
  • 1936年(昭和11)  大阪毎日新聞社会事業団内に全日本保育連盟を結成。また民国窮民孤児救護会、隣邦児童愛護会を結成、幼児教育義務化運動や中国人孤児救済にあたる
  • 1947年(昭和22) 豊中市議会議員に当選、議長を務める

 

 子供を遊ばせつつ説明板の文章を読んでいたときは(何の美談か)ぐらいにおもっていたが、そんな浅いものでは無いようだ。豊中の子供達は、こういうことも教わって育ったりするのだろうか。

 

 西村さんと魯迅の関係は、1932年に奉仕団と上海を訪れた時にできていたのかもしれないと推測できるがはっきりしない。上海の書店経営者であり魯迅と交友の深かったという内山完造さんが関係していたかもしれない。鳩の三義についての手紙を受け取ったはなしは魯迅の日記の1933年6月21日の項にも書かれていて史実として確認が取れていることなのだが、その前のことは文献を見つけられていない。 

 

 魯迅については、中学生くらいの時期に『阿Q正伝』を読もうとしてちっとも読み進められず、その後もあまり読んでいない。自分に読む力量がなかったかと思っていたら、松岡正剛さんの千夜千冊によると、そうでもなく誰が読んでもそんなに面白い作品ではないらしい。ちょっと安心した。

 

716夜『阿Q正伝』魯迅|松岡正剛の千夜千冊

 

   西村さんは長野県東筑摩郡、現在の松本市の出身、お墓は多磨霊園にあるらしい。豊中市議会議員を辞したあとは大阪からは離れてしまったのかと推測される。しかし鳩の三義が死んでしまった時に野面石を持ってきて墓を作ったのが豊中の西村邸近所の方々だったという話しから、西村さんの活動が周りにも理解を得ていたことが伺える。塚が残ったことで西村さんの業績も大阪で永く記憶されることとなり、ひいては「學天則を復元しよう」という試みにつながるあたり、大阪ならではの出来事として誠に気持ちが良い、そう考える所以である。

 

吉田カバンの寿命

 キーケースを買い換えねばならない状態となった……という話しを書いたが、実はもっと大物が破けて頭を悩ませている。仕事用の鞄である。Porter の黒の布製バッグで、今までも何度も書いているが2005年1月に購入したもので間も無く愛用して14年目を迎える。

 

 2012年に一度おおきな破損があって修理に出している。その翌年、翌々年も修理に出していて、これであと仕事を辞めるまではいけるだろうなどとおもっていたが今のところ私が現職を辞する予定はなく、一方で鞄は寿命を迎えつつあるようであちこちが同時多発的に破けてきた。

 

 まずは片方のサイドポケットの上部がほぼ全面に渡り破れた。正確にはサイドポケットの中に更にファスナーで仕切られたポケットがついていて、書類などはそこに入れるのを常としてきたのだがその上部が破れてしまい以下の写真の通りでサイドポケットと本体がつながってしまった。これは最近、中のファスナーを開けた状態で掛けていたもので余計に負荷がかかってしまったらしい。保存の時の配慮が足りていなかった。

 

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 そうこう言っている間に本体反対側上部も破けた。実をいうとサイドポケットのかぶも綻びつつあり、こっちの方がやばいかもしれない

 

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 更に更に、持ち手を束ねる革製の部分が長年の負荷に耐え切れず千切れてきた。

 

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 なお肩掛け用の紐についていたゴム製のパッドは1年に1回のペースで破れてしまうのでついに買い換えることをやめてしまっている。

 

 今までの修理代でもうひとつ買えるかな……? というところにきているので、愛用品とはいえ際井戸修理に出すことには躊躇を覚えている。底が抜けてしまうか、持ち手の革の破れ目が貫通してしまうか、どちらかになれば新しいものを買うか……という気になってきている。そんなお金は無いのだが、できるだけ延命させつつ新春バーゲンの際に最近の商品をみておこうかと考えるようになった。

 

2012年から2014年にかけての修理の記録

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キーケースを探す

 愛用のキーケースが破けた。

 

 トレッサ横浜の南棟、ロフトの奥に入っていた革製品を扱う店で買ったのだが、今は同じ場所に店はない。トレッサ横浜トヨタの関連企業が運営するショッピングモールで、1階が自動車のショールームになっていたりすることもあって駐車料金が無料となっていて、距離はあるが時々家族で買い物に行く。最初にいったのは北棟・南棟がそろったあとのことでおそらく2008年頃ではなかったかとおもう。キーケースを買ったのもそのころだ。現在無印良品が入っているあたりか、あるいはアーノルドパーマータイムレスが入っているあたりだったか店の名前をすっかり忘れてしまった。

  

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 キーケースはとても愛用していて、革製の小銭入れ状部分に自転車の鍵を入れて持ち歩いていた。自転車の鍵というものは解錠する時のことを考えるとキーホルダーにつけておくことができない。このキーホルダーさえ持っていれば自転車の鍵を忘れることもなかった。

 

 穴が開いてしまってからもしばらくは落ちないように気をつけながら使っていたのだが、先日夜道で破れたところから自転車の鍵を落としてしまい15分ほど必死に探すこととなるという事態を引き起こしついに自転車の鍵は別にするように変えた。新しいキーホルダーに替えようと探し始めているのだが、このような形の製品がなかなか見つけられないでいる。見つけても値ごろ感が合わなくて、ちょっとお高い。現在も使い続けている財布を購入した千駄木レプロットなど、革製品の工房は東京だと東の方にいくつもあるイメージだけれど、そういうところの製品は良いけど私には高いということになりそうだとわかってきた。当分は丸善など文具店に寄る時に気をつけてみようかとおもっている。

 

名前を忘れた技

 大阪市立大学合気道部の創部五十周年記念は、普段から現役生が稽古を行っている第二武道場において OB・OG 集まっての稽古会のあと、高原記念館で式典を行うというものだった、稽古は OB・OG が順に技を出していった。私の出した技について懺悔があるので書いておきたい。

 

 技の名前を適当に言ったので、間違って言ってしまった。実は現役二回生が私の間違いに気がついていたのだが、結局自分がその時にやった技の稽古で通してしまった。実はいまでもその技をどう読んでいたのか自信がない。

 

 昨年大田区合気道連盟の春季演武大会の時に私が「その技」をやっていた動画があったのでそこからスクリーンショットをとってきた。画質が良くないのはもとが動画だからで、ご容赦。

 

  一教の抑えに入る。

  

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 持ち替えながら相手の斜め前方に回り込む。

 

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 相手の脇・肘が直角になるように導いて背後に投げる。四教の裏に近い形になる。

 

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  この技をやるまえ「〜返し」だった気がするのだが「一教返し」ではない。「一教投げ」でもなかったはず……と悩んで説明の時に「六教返し」と言ってしまった。

 

 六教は相手の腕を両腕で抱えるようにして極めるので、これは六教返しではない。間違った技の名前で説明してしまった。実は直前まで(この技って何だったっけ……一教返し? 違うな。一教投げも違う)などとぐるぐる考えていた。

 

 あとで改めて調べてみると「一教返し」という呼び名で上記技と近い形を稽古している動画をあげている例をひとつみつけたが、逆に言うとひとつだけで公に使われる技の名前とは言い難い。大田区合気道会で正面打ちから一教に抑えた状態からそのまま相手を前に突き飛ばすように投げる稽古をしたことがあるが「一教投げ」と呼んでいたかどうか思い出せない。いずれにせよまた違う技だ。

 

 ということで結局自分では正解にたどり着けないのだがあればやはり「一教返し」と言って稽古していたような気がしてきた。ここにこっそり訂正させていただくものである。