渡邉信之師範について私が知らなかったこと

 1980年代に「Do!スポーツ」という番組がテレビ東京系列で放送されていた。私が奈良市立二名中学校、奈良学園高校、大阪市立大学に在学していた十代だった頃の番組で、「なんで Play sports やないねん」 などとツッこんでいたことを思い出す。

 

ja.wikipedia.org

 

 マイナースポーツを取り上げる番組、というイメージがあった記憶がある。 上記 Wikipedia の記事は2019年12月時点で出典が示されていないようだが、ある程度正しいと仮定して読むとモータースポーツ、アウトドアスポーツの回が圧倒的に多いようだが時々武道・格闘技の回がある。合気道は二回、取り上げられている。

 

 二回目が私が大阪市立大学に入学し、合気道部に入部した 1987 年の放送で「極技空気投げ合気の世界」というタイトルである。私はその放送をVHSテープに録画したものを誰かに見せてもらっているはずである。動画検索を試みたが残念ながら見つけられなかったが、微かな記憶では渡邉信之師範が演武をされていたのを覚えている。それは座法で一教の抑えをされる映像を見た記憶なのだが(えっ)と思ったのを覚えている。文字にしてしまうと「渡邉師範は受けに触っていないのに受けは一教で抑えられた」という映像を見たのだ。

 

 Youtube で、公式のものではないが、その雰囲気が分かる動画あった。一教(と思われる)場面の静止画像と合わせて掲示する。時期が書かれていないが、背後に飾ってある写真が植芝吉祥丸前道主のものであるとしたら1999年頃の全国合気道演武大会だろうか。

 


【合気会】渡邉信之師範【八段】

 

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 当時の私の師範は阿部醒石先生だが、大学生時代はあまり稽古をつけていただく機会がなかった。ただ一回生の時に創部二十周年記念式典があり、その際に阿部先生の説明演武を見ている*1。阿部先生も時に触れる前に制したり投げたりを演武でされることがあった。つまり私はそういう技の現れ方もあり得ると考えるような主観の持ち主なのだが、その私ですら渡邉師範の演武は(また少し違うようだ)と感じていた。今改めて上記の演武を見ると「ああ、これは導かれるな、分かるな」と思う技と「これは受け(受け身ではなく)を取り過ぎではないかな、自分だと違う受けになるのではないかな」と思う技の両方があるように感じる。

 


Seiseki Abe sensei

 

 渡邉師範は今年、2019年8月20日に逝去された。 それを受けて大田区合気道会でも渡邉師範の指導を参考にした稽古をすることがあった。渡邉師範が整骨院を経営され、人体の仕組みにも造詣が深くそれが指導にも現れている……というようなことも知ることが出来た。

 

 整骨院と柔道の道場が一緒にあるような例は時々見かける。柔道創始者の嘉納治五郎先生は最初柳生心眼流、次に天神真楊流に入門されているが、昔読んだ子供向けの嘉納先生の伝記では「骨接ぎの看板を掲げた家の門をいきなり叩いて柔術を教えてもらえぬか尋ね、入門を認めてもらった」というような書き方がされていた記憶がある。

 

 合気道の師範でも柔道整復師の資格を取られている方や、それ以外の整体技術を習得されている方も結構おられるのかもしれないが、意外と耳にする機会が少ない。子母澤寛さんの随筆で「砂泊さんという合気道の名手に肩が張るのを見てもらっている」という記述をみつけて軽く驚いたのは少ない事例のひとつだったりする。

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

 渡邉師範は磯谷いそがい公良氏が戦後間もなく創始した磯谷療法をまず学ばれたらしい。股関節の調整を重視するかも手法とのこと。この辺りの身体の仕組みと技との関係という理解についての詳細は渡邉師範のお弟子さんには引き継がれているのかもしれないが、合気道関係でそういった側面について記載している書籍や記事を今のところ見つけられていない。磯谷療法に携わっている方がネット上で公開されている記事がいくつかあって辛うじて概要がわかる程度だった。そのため渡邉師範について私のように「触らない技を演武でされる先生」とだけ思っているような不届き者は実は結構いるのではないだろうか。

 

 渡邉師範がどの様に学ばれ、その結果を稽古に反映されていて、その結果が演武にどのように現れるのかということはこれから様々な稽古の現場でなされるのであり、今回私も大田区合気道会の稽古でその一端に触れたのかもしれない。

 


2011年3月26日 渡邉信之師範 本部道場最終稽古 (抜粋) Mar 26, 2011 Nobuyuki Watanabe sensei's Final Class@Hombu Dojo

 

*1:私が卒業した後に阿部先生が道場に来られる回数が増え、ご指導いただく機会が増えることになる

大森山王ジャーマン通り 古書店の変遷

 大森の「あんず文庫」という古書店を紹介する記事が Facebook で流れてきた。Bookshop Lover の和氣さんのポストで、近くまで来られたんだな、と思い「あんず文庫」の場所を確認してみて(あ、天誠書林のあったとこか)と納得した。

 

www.facebook.com

 

  上記ポストへのコメントにも書いた、古書店の変遷を一部訂正の上もう少し詳しく、書いておこうと思う。

 

「天誠書林」がいつからあったのかはよく分からない*1。未読だが岡崎武志さんの『気まぐれ古書店紀行』に天誠書林が登場することから1990年代にはあったと思われる。大森駅から環七通りに抜けるジャーマン通り沿いの、環七寄りに行ったところ。隣が内科・小児科のじゅんせいクリニック、通りを挟んで向かいが中華料理のとんとん亭と京華飯店。この辺りに移ってきた2005年頃に私も一度店に入っている。

 

 自分の鈍さを残念に思うのだが、あまりにも真っ当な古書店としての店内の様子を当たり前に受け止めてしまい本棚の様子などあまり覚えていない。何故神保町ではなく大森の、それも駅からかなり離れた場所にこれほどの古書店が存在するのだろうかということに思い至らなかった。再訪することはなく、2008年3月末日をもって閉店されたと認識している。

 

 その後、私が松旭斎天勝と三島由紀夫について書いた文章にいただいたコメントで「天誠書林」のご主人が三島由紀夫作品の舞台の演出助手を務められた方であることを教えていただいた。

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

 その後更に店主の和久田わくた誠男しげおさん*2が和久田わくた三郎さぶろう先生のご子息であったことを別の機会に知って、三島由紀夫云々よりも残念に思うこととなった。「先生」というのは、和久田三郎さんは植芝盛平翁先生の合気道の直弟子なのだ。私などからすると尊敬すべき先達であり、たとえ「天誠書林」に何度も通っていたとしても父君のお話を聞くような機会を得るのは難しかっただろうと分かりながら、惜しいことをしたという気持ちは拭えなかった。和久田三郎先生は一般には大相撲の力士、そして力士の待遇改善を訴えて起こされた春秋園事件の主導者である天竜三郎関として知られている。

  

春秋園事件(しゅんじゅうえんじけん)は、1932(昭和7)年1月6日に発生した力士の争議事件である。 事件名の由来は、東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区大井)の中華料理店「春秋園」に立てこもったことに由来する。また、主謀者の名前から天竜事件、天竜・大ノ里事件とも呼ばれている。複数の関取が、力士としての地位向上や大日本相撲協会の体質を改善するよう要求して協会を離脱したが、力士側の要求はほぼ受け入れられず、結局多くの離脱した力士が帰参した。

春秋園事件 - Wikipedia

 

 春秋園事件ののち争議を起こした力士達は大日本関西角力協会を設立するが、それも解散した後の1938(昭和13)年に和久田先生は満州に体育指導員として赴かれる。翌1939年の春に日本武道の普及のため満州に武道家達を招いたことがあったのだが、招かれたなかに植芝盛平翁先生がおられた。翁先生が説明演武の際に「我こそはと思うものは」と言われたのを受けて和久田先生は翁先生の左腕を持つのだがひしぐことができず、逆に投げ飛ばされたという話を合気ニュース社の『植芝盛平と合気道』に収めらているインタビューでご本人が語られている。この時に弟子入りを志願、認められて三ヶ月という短い間だが本部道場で翁先生に認められるまで直接指導を受けられている。

 

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

 

 

 この話は合気道を修めている人間は知っていても、相撲ファン含め一般の人はあまりご存じないのではないかもしれない。Wikipedia の「天竜三郎」のページにも記載がないので、後日「人物」欄あたりに追記しておこうかと思う。

 

 ちなみに争議の時に和久田先生らが本拠とした春秋園は大井町にあり、以前調べてみたら確か今のイトーヨーカ堂のある辺りだった。和久田先生のご自宅はどうも大森山王にあったようであり、春秋園を使われたのも地元であったからかもしれない。ご子息誠男さんが大森ジャーマン通りに古書店を開かれたのも知った土地であったからだろう。

 

 余談が過ぎた。「天誠書林」は前述のように2008年3月末日で閉店され、ネット古書店での運用に移行されたと聞いている*3。「天誠書林」閉店後すぐあとに入ったのが九品仏から移って来られた「アンデス書房」という古書店だった。私は「アンデス書房」にもやはり一回だけ入った記憶がある。南米に関する本であったり民俗学、特に宮本常一さんの著書が充実していたとのことだが棚がどうだったかやはりほとんど覚えていない。宮本常一は地元山口の偉人であって(宮本さんは周防大島、私は長州の片田舎でちょっと離れているが)『忘れられた日本人』は愛読書なのだが、これまた自分の鈍さが恨めしい。

 

「アンデス書房」は翌 2009年4月で閉店、同年6月に「東京くりから堂」が入った*4。私は「東京くりから堂」については遂に訪れないままだった。2017年夏頃に閉店されたと思う。アンデス書房さんも東京くりから堂さんも、ネット販売や古書市への出店はされているのではないかと思う。

 

 約2年間空き店舗だったのが、9月14日に「あんず文庫」が開店された *5。Bookshop Lover のポストを読んで数日後に行ってみて、笙野頼子さんの短編集を買った。丁度短編小説について書くことがあったのだ。店内にはバーカウンターがあるのだが先週末に再訪したところお客さんが二人座って店主と話しておられた。既に常連客さんが来るようになっているならしばらくは最寄りの書店は安泰ではないかと安心している。

 

大森 あんず文庫

 

*1:これを書いたあと『同時代の証言 三島由紀夫』(松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、鼎書房)に当たったところ1993(平成五)年開業とのこと

*2:書いた時点で「まさお」とルビを振っていたが、『同時代の証言 三島由紀夫』(松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、鼎書房)に和久田さんの略歴があるのにあたったところ「しげお」とあったので訂正しています。失礼しました

*3:和久田さんはその後も西荻ブックマークなどのイベントにも出席されていたそうだが2012年に逝去されたと聞いている

*4:「松旭斉天勝と三島由紀夫」にいただいたコメント情報

*5:あんず文庫さんの Twitter アカウントのプロフィールより

合気道において結びとは何か

 6月16日の日曜日に足立区綾瀬の東京武道館で開催された、東京都合気道連盟の錬成稽古に参加してきた。指導は入江嘉信師範で二百名弱が参加していた。

 

 稽古の最初の挨拶の際に入江師範は「最近稽古している『結び』と『吸収』についてお話ししたいと思います」ということを仰った。実際の稽古の中で「結び」や「吸収」について具体的に「これだ」ということは説明されなかったのだが、読み取ればここで仰っているのがそうだな、ということは感じられた。

 

 稽古後の更衣室で同じ道場の方同士の会話で「吸収っていうのは分かったけど結びってのが分からなかった」という声があって、それはとても良い問題提起だと思った。「結び」という言葉は合気道では良く使うけれど、実は人によって定義にブレがあるかもしれないと気がついたからだ。

 

「むすび【結び】」を棚にある小学館の国語大辞典でひくとこんな感じである。

 

1. 紐状のものをからみ合せ、巻き込んでつなぐこと。また、そのような状態にしたもの。

2. 両手で水をすくうこと

3. 飯を両手で握り固めたもの。にぎりめし。

4. 焼き飯をいう。女房詞。

5. 人と人とを関係づけて、親しくさせること。

6. 文章、物語などの終わり。結末。

7. 文法で、係り結びの係助詞と呼応して、文を終わらせる語法をいう。

8. 集合における「ジョイン」

 

 どれも厳密にいうと合気道において言う「結び」にはぴたりとは該当せず、敢えて言えば五番目が一番近い。正面打ちを打ち込むのではなく、手刀を合わせた状態から稽古することがあるが、それを「気結び」と呼ぶ場合がある。また、組太刀の基本に「気結びの太刀」がある。以下齋藤守弘師範の模範。

 


【合気道】組太刀の極意【斉藤守弘師範】

 

 これらを受け取って稽古をしてきた私の「結び」の定義は「相手と調和した状態で相対すること」だろうかと何となく、思っていた。例えば私がこう定義したとして、師範の先生方がどう言われるか。そんなにずれることがないかもしれないが、微妙に異なる定義が出てくるかもしれない。もしかしたら、「それは言葉で定義することではない」とかいう意見が出てくることすらあるかもしれない。

 

 取り急ぎ探してみると、菅沼守人師範と遠藤征四郎が指導されている公開動画で、「結び」と言う言葉が出てくるものを見つけた。おふたりとも植芝盛平翁先生の最晩年の内弟子だが偶然だろうか。

 


菅沼守人先生・合気道"結び"の実演2011_11_19

 

 菅沼師範が説明されているのは、片手持ち、あるいは単に掌を合わせた状態で相手との力の方向を合わせた状態のことを「結び」と呼んでおられるように読み取れる。

 

 


Atari and Musubi 07_Seishiro Endo Shihan 当たりと結び07_遠藤征四郎 師範

 

 遠藤師範は、相手が安定した状態で腕を曲げている時、その拳に上から掌を乗せて、そこから合わせて相手を導くことができる、と言うことを説明されている。動画中においては遠藤師範のお話しに「結び」と言う言葉は出てこないが、タイトルが「Atari and Musubi」となっていることから動画前後において「当たり、とはこういうこと、結び、とはこういうこと」とご説明があったのではないかと推測される。相手の拳について上への力に合わせるように(掌で上から押さえるとそれに対して堪えようとする。その力のことを仰っていると思う)ご説明されている、その部分が「結び」になるのではないだろうか。となると、菅沼師範と近いところを「結び」と表現されているように思える。

 

 先ほど掲げた私の定義の範囲内であるとも言えるのだが、実は私としては菅沼師範や遠藤師範が示されているより前の、例えば片手を持った状態、拳に掌を合わせた状態のところを「結び」と捉えるところがあり、先生方の方が「結び」にあたるところが広いように感じている。

 

 ではそもそも開祖はどう仰っていたんだろうと思い、植芝盛平翁先生の口述を何冊が本棚から取り出してきて読み返してみた。主に次の三冊。

 

合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

 

 

武産合気

武産合気

 

 

合気道

合気道

 

 

 読みはじめてすぐに思い出したのだが、翁先生が上記の本など晩年の口述において、技の基本について触れるはほとんどない。稽古修行することでひいては世の中をどう良くしていくのか、禊における考え方、古事記など神話に描かれている内容をどう読み解くのか、と言うお話しが主となっている。今回知りたい意図での「結び」についての言及には行き当たらないのだが、それでもちょっと面白いことに気がついた。

 

『合気神髄』は道場における植芝盛平翁先生のお話しを筆録したものであろうと思うのだが、「結び」が頻出している。何箇所か引用する。下線は引用者がつけた。

 

 合気は宇宙組織の玉のひびきをいうのであります。すなわち全大宇宙のことで、小さなことをやっているのではないのです。教育者や年輩者は率先して武道の実践をしなければならないと思います。この道は全部、天に学び、地に学び、宇宙の中心に結んで、また、我々は宇宙とともに進んで、その上に自己の息で全部結ぶことをやり遂げていくのであります。

 我々は魂の気の育成と、また、立て直しをしなければいけません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の身の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲良く和と統一に結んでいくのです。これからはいうまでもなく戦争をしてはいけない。喧嘩争いはしないこと。すべては結びでやる。それがないと本当の強さは出てきません。それでないと皆さんの稽古が無駄になってしまうのです。

第1章 合気道は魂の学び より 

 

「気の妙用」は、呼吸を微妙に変化さす生親いくおやである。これが武(愛)の本源である。

「気の妙用」によって、心身を統一して、合気道を行ずると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。この呼吸の変化は、宇宙に気結び、生産いくむすび、そして緒結びされる。

 また、呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。

 こうなって、初めて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。

 第4章 合気は息の妙法なり より

 

 合気は和と統一に結んでいくのである。梅と松の仕組みである松竹梅の教え。これは何億万年前の昔からの仕事である。これは艮の金神の神の御教え、そして小戸の神業で、真人養成の道である。ホノサワケの島。天の浮島というのは「ア」は自ら、「メ」は巡るといい、自ら巡るというのが天の、浮島の方は……二つのものが水火結んでいく、霊界も顕界も一つにする。

第6章 合気とは禊である より

 

 これらは私が目についたページを引用しただけで、他にも頻出している。

 

 一方で、同じく口述筆記本である『武産合気』でも「結び」の語は出てくるのだが、かなり少ない、というのが今回気がついたことで、『合気神髄』と何が違うのか、ということになる。『武産合気』は白光真宏会の髙橋英雄さんが筆記されたもので、五井昌久さんと植芝盛平翁先生が親しかったことから口述筆記が実現している。つまり『武産合気』では翁先生は髙橋さんがおられる前提でお話しされている、というところに違いがある。「合気道とはこういうものです」ということを稽古していないひとに説明されているのと、五井昌久先生のもとで信仰の道にあるのと合気道の稽古しているのと共通する、大きな目標のようなものについて語られている部分とがあるように読める。となると例え概念的なお話をされていたのであっても「稽古において相手と向き合っている」という具体的な状況を前提に説明する場合において「結び」ということばを使う必要があった、ということは言える気がする。

 

 技において「結び」ということばが使われかを知るために三冊目の『合気道』も読んだ。本当は『武道』にあたるべきなのだろうが、これは市販されているような書物ではない。直弟子の師範の方にお持ちである方がおられるという、免許皆伝書に近いようなもので、齋藤守弘師範は必ずこれを携行されてご自分の説明と合っているか、というのを稽古参加者と共有されるのに使われていた。他にもお持ちであるという師範のお話しを聞いたことはあるが、公にされていなかったりするのでここではお名前を挙げない……などという配慮が必要な書物であり、棚にある植芝吉祥丸前道主のこの著書に当たった。残念ながら全く出てきておらず、「結びとは」というようなことについては口述でしか説明はされなかったのではないかと推測せざるを得ないという結論になった。

 

 という自分なりの「結び」についての研究を経たうえで改めて入江師範の演武動画を見させていただいている。なお「吸収」についてだけれど、相手と「結んだ」状態から相手に近づく際に、力が入ったままだとぶつかって跳ね返されたりする。そうならぬよう相手に近づくには、相手と「結んだ」まま、自分は力を抜いて相手の力をもらいつつ動くようになる。その動きのことを仰られていると理解している。

 


IRIE Yoshinobu - 57th All Japan Aikido Demonstration 2019

入り身投げの表と裏

 少し前に大田区合気道会での稽古が終わった後に「入り身投げの表って知っていますか」と聞かれて、それがどうやら私が大阪市立大学で稽古していた入り投げの形に近いものらしい、ということが分かったので少し書いておきたい。

 

 最初に合気道とか特にご存知のない皆さんに書いておくと、合気道において「表技」とは相手の前側に導くことをいい「裏技」は相手の背後側に導く技を指す。厨二病的に「普段稽古するのが表で、実は裏技がある」とかいう格好良い言葉ではない。

 

 入り身投げにおいては、通常表とか裏とか言うことがあまりない。基本技として初心者から高段位者まで繰り返し稽古するが、相手の背後に導く形が基本で稽古することが圧倒的に多いからだ。齋藤守弘師範の模範演武の映像から説明すると、正面打ちから相手の背後に入り身をする。

 

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 ここから上方に相手を導き、相手の顔に腕を重ねるようにして背後に倒すという説明になろうかと思う。

 

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 この齋藤先生の入り身投げが私は好きなのだが、普段の稽古では相手の背後に入り身した際にさらに背後に円を描きつつ流し、そこから返す形を稽古している。その例として植芝守央道主の演武映像も見させていただいたのだが、道主は流れの中で投げる際に相手の背後に回り込みながら投げるようにされる。これは隙のない投げだが説明上例としてあげるには難しく引用を断念した。 以下は上記齋藤守弘師範の画像の元映像。

 


Morihiro Saito Sensei. Shomen Uchi

 

 では道場で話題となった「入り身投げの表技」はどうかというと、入り身をして相手の背後に入るところまでは同じと考えて良い。そこから入り身した足を元に戻すようにして投げる。これが「表技」かというと考えてしまうが、足を戻す際に相手の前面に入っていると言えなくもないかもしれない。ただ道場で話している際にも「そっちが裏じゃないですか」とか異論が出ていたのでこの、表技・裏技の呼称が正式なものか今もって自信がない。

 

 大阪市立大学合気道部で稽古していた入り身投げだが、この度「入り身投げの表」の名で近いものを知るまで他で目にしたことがない。市大合気道部は阿部醒石師範門下だが、初期に藤平光一師範の指導を仰いだ先輩がおられるので心身統一合気道の何らかの影響があるのだろうか、とぼんやり思っていた。

 

 しかし改めて藤平光一師範の公開されている映像を見直して見ると、現在私などが稽古している入り身投げと変わらないものもある。また、すーっと上に導いてすとんと下に落とす、という形が多いような印象を持った。ただ、なかにひとつ近いものがあった。以下にやはり画像化して示している。

 

 とすると技の説明が受け渡されていく中で伝言ゲーム的に「表技」的な面が強調されて市大合気道部に伝わってしまったのかもしれない。

 

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 下の画像で藤平師範は微かにだが左足を引くような動作で受けを投げられている。ここでは襟を持っておられるが、市大合気道部では首の横に手を当てていた。余談だが齋藤守弘師範の稽古に参加した時に「受けの首を持つのは失礼だ。あれは藤平光一師範が始められたんだ」と非難されていたのを聞いたことがある。これを見ると襟を持たれる場合もあったようで、齋藤師範が植芝盛平翁先生の技の通りに稽古されようとしたのと比べると技の形に自由度があるような印象がある。

 

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 大阪市立大学合気道部も終わってしまったし、そもそも最近はここで言う「表技」な入り身も稽古していなかったように聞いているので、いずれ消えてしまうものかぐらいに考えていたが、意外に変化技のひとつとして残り得るのかもしれない。 

 


1960 / 1970 Aikido with Koichi Tohei

昇段

 まだ大阪市立大学在学中、恐らくは二回生ぐらいだった気がするので1988年頃のことだったとおもうが合気道部で先輩が段位について話してくださったことがあった。どなたに伺ったのかも覚えていない、遠い昔の話しだ。

 

「四段までは俺たちの免状と同じような普通の賞状だが、五段からは和紙に手書きになるらしい」

 

 当時、合気道部で五段、六段に昇段すると言う方はいなかった。なお天之武産塾道場では阿部醒石師範は十段位であり、そういう話は超越していたという印象しかない。今になって改めて確認すると師範代であった木下良一師範は私が大阪市大を卒業し就職した1991年に六段位を允可されておられていて、その頃は道場にもよく稽古に行っていたからどこかでお話しを聞いていたかもしれないのだが今振り返るとあまり覚えていない。そんなことで五段以上の免状については想像上の存在として過ごしてきた。

 

 五段に推薦いただく話を尾崎晌師範からいただいたのは昨年の10月8日の大田区合気道連盟の演武会を南馬込文化センターで執り行ったあとで、その瞬間に思ったのは免状がどうこうではなく、また推薦いただけたありがたさよりタッチの差で、恥ずかしながら(昇段登録料を払えるだろうか)ということが先に浮かんだ。先に書いておくと五段の登録料は7万5,600円。それを捻出することができるか、それなりに逼迫した家計のやりくりからすぐに判断ができなかった。結果としては手をつける予定のなかったところからなんとか調達して推薦をお願いした。なお大阪で二段、三段の試験を受けた際には登録料に少しだけ阿部醒石先生へのお礼も含めていた気がするが正確な額は覚えていない。1万円以内であったとおもう。噂だがそんなものでは無いお礼を師範に納める道場もあるときく。大田区合気道会では登録料と更新料だったか、いずれも合気会が公式に道場に課している費用だけとなっている。

 

 推薦が通ってこの正月の本部道場鏡開き式で五段をいただいてきた。なお手続きはあくまでも「各道場が本部道場に対して行う」のだが、その要領が分からずとてもまごまごした。新宿若松町の本部道場に伺うと既に三階の道場には人が溢れていて入れず、二階の子供が稽古する道場にやむなく入って映像中継で鏡開き式をみる事態となり、その点でもまごまごした。まごまごしている間に尾崎師範が手続きをしていただいていたので全て済んでいたのだが。

 

  五十歳で五段ということになった。鏡開き式のあと、大森駅前まで戻って大田区合気道会の新年会と昇段者のお祝いがあり出席したのだが、その席で天之武産塾道場での昔話をした。これも自分が市大の二回生の時だったと思うのだが、他大学の先輩が二段を受験されて合格、そのあと阿部醒石師範と座談する時間があった。その先輩が「私などが昇段して良いのかと思います」と殊勝なことを言われると阿部先生は「それでええのや」と仰った。「まだ自分には足りないところがある、だからもう少し頑張ろう、と思うことが大事や」と言われる。自分は不遜なところがある人間でそういう謙虚な気持ちを自然に持つことができないところがあるのだが、阿部先生の「それでええのや」が耳に残っている限りは自分を戒めることができるのではないかとおもう。

 

 

免状

 

西岡先輩の寄稿文の発見

 大阪市立大学合気道部のサイトに、旧三商大戦五十周年のイベントを一橋大学、神戸大学の各合気道部OBと行ったことを短くポストした。

 

 稽古と懇親会とがあり、稽古は夢の島公園内にあるBunB東京スポーツ文化館で場所を借りて行った。神戸大学、一橋大学、大阪市立大学各合気道部OB会が交代で指導する形で行い、市大合気道部は私が全て指導を担当させていただくこととなった。この日も熱暑の日であり、技が終わるごとに休憩を呼びかけて給水されるように声をかけて行った。普段稽古されていない方が久しぶりに道着に袖を通されたような場合でも参加できるような内容を考えていたのだが、気候的に普段から稽古している方でも厳しいような感じだったので少し強調して休憩をいれるようにした。

 

 懇親会は一橋大学如水会館で行ったのだが、市大合気道部OBとして大きなできごとがあった。一橋大学の五十年前の部誌に、合気道部創始者である西岡先輩の寄稿文が残っていたことが共有されたのだ。

 

https://www.osaka-cu-aikido.com/post/177545383892/旧三商大戦合気道部

www.osaka-cu-aikido.com

 

 今までも西岡先輩については何度も書いてきた。在学中に亡くなられた西岡さんについて、我々に残されていた情報がとても少なく、少しでも残っていることは書いておこうとしてきた。どれくらい情報が少ないかといえば、西岡さんの下の名前すら分かっていなかった。それが今回寄稿文に「西岡正広」と書かれているのが分かった。ちなみに文末に幹部部員の情報が書かれているが、コピーを重ねたせいかあとの方は文字がかすれていて「西岡貴広」のように読めるのが悩ましいところだが、冒頭は間違いなく「正広」とある。

 

 西岡さんが書かれた文章というものも市大には残っていなかったから、その意味でも初めての発見。原稿用紙2枚ちょっとの分量で後半は合気道部の行事予定と幹部部員を記載した事務的な文章だが、前半は西岡さんなりの言葉で「合気道を稽古するとはこういうことだとおもう」という内容が書かれていて興味深い。合気道部の後輩として、というだけではない。西岡さんが高校時代から北野高校合気道部で稽古されていて、植芝盛平翁先生来阪の折には受けに指名されることがあったという話を思うとき、その時代の翁先生に直接教えを受けていた弟子がどのように考えて稽古に向き合っていたのかということが言葉に残っているということが貴重に思える。

 

これまでに西岡先輩について書いたもの

mukunokiyasuo.hatenablog.com

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大学アメリカンフットボールの、クラブ運営事例について

 日本大学アメリカンフットボール部が犯した危険行為について知ってから大学アメフト部について調べていたら興味を惹く記事をみつけた。中央大学アメリカンフットボール部のOBによる、クラブ運営を紹介した多羅正崇さんによる記事。自分が在籍していた大阪市立大学合気道部の廃部があったばかりだったこともあり、今となってはもう遅いながらもこんなやり方があるのだ……と参考になることが多かった。

 

news.yahoo.co.jp

 

 前月に日本大学アメリカンフットボール部による危険行為について書いて以降、アメリカンフットボール部にとどまらず日本大学の組織としての異常さを示す報道が多くなっていった。アメリカンフットボールという競技の持つ問題よりも日本大学という私立の学校法人の問題の方がずっと大きいらしいと分かってきた。

 

  ただ、様々な角度からの指摘が出るのを読んでいると、「日大の問題」だけでもないという意見もあって、スポーツのクラブ運営が日本においては全体的に未成熟であることも課題として捉える必要があるという指摘を読んだ時には中央大学ラクーンズのクラブ運営はアメリカンフットボール競技が示した良い事例になり得るのではないかと思い当たった。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 一方で、日本の学生スポーツの場合はどうか。

「アメフト関東学生連盟のトップや審判の報酬は、ほぼゼロです。審判は休日を返上して、ボランティアでやっています。ボランティアでやっている以上、チーム側へ影響力やガバナンスが機能しているとは言えませんし、問題が起きても厳しい対応に臨むことが難しいでしょう」

 関東学生アメリカンフットボール連盟によると、理事や役員に対する報酬はなく、理事会などに参加した際の交通費だけが支給される。日本アメリカンフットボール協会によると、審判への日当も、交通費を含めて1試合数千円程度で、ほとんどが他の仕事しながらボランティアで行なっている。

 

 日本大学選手による危険行為について私は最初、審判が最初のプレーで退場処分まで行っていないことはどうなんだろうと感じた。実際、社会人リーグでプレーされている選手の方で審判の判断にかなり厳しい意見を書かれているのも読んだ。それはそれで正しい指摘なのだが、交通費の支給だけで現場に入っている審判が一発退場を命じるような毅然とした態度を取れないのは、審判の能力以前に大学アメリカンフットボールリーグの運営が審判にきちんとした権限を与えられていないと考える方が根本的な問題に迫っているのではないだろうか。

 

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  日本のスポーツにおける組織経営が未成熟なのは大学のクラブに限ったことではない。先日大学時代の先輩と会食した際に、社会人になってからされていたスポーツをやめて所属していた組織からも退会された話をうかがったのだが、退会を決めた理由は「子供達の参加する大会などを手伝うよう求められるようになってきて、純粋に楽しめなくなったから」ということだった。これが例えば指導者としての役割を担当するひとには一定の報酬があり、一般参加者と分かれているようなシステムが徹底されているならば、「無償で自分の休日を提供して奉仕しなければならないようであるならば続けられない」といったような理由で競技から離れていくひとは減るのではないだろうか。

 

 中央大学ラクーンズは、チームの母体として一般社団法人を設立する方法を採られている。私が知っているいくつかの大学合気道部や道場でも、しっかりしたところは法人といって差し支えないほどに組織化がされている。専任の師範や監督を置いている大学は寡聞にして知らないが中央大学のように本業がありつつ役職をもたせている大学合気道部はある。そこまでできているならば、一般社団法人化やNPO法人化することも出来るかもしれない。

 

 いま思えば私がOB会の規約を作って「組織」にしようとした時、そのような法人化の入り口にはいたのだがそこまでで手一杯で、実際に法人化するようなことまでには全く考えが及んでいなかった。法人化したからといって必ずうまくいくわけでもなく、野球にせよサッカーにせよ2部リーグ以下のチームの経営が大変なことについても取材記事など目にする。それでも小規模な団体ならば個人財産と法人財産の分離、つまり「持ち出し」の抑止や指導者への多少の報酬を実現するツールには成り得る。中央大学に限らず成功例がこれから増えてほしい。