椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

内川流路(西馬込〜馬込桜並木通り)

 昼過ぎに子供と庭で遊んでいたのだが、長男が「じてんしゃにのりたい」と言い出した。丁度年末に帰るときに実家の両父親あてにお土産を買おうと、ジャーマン通りの酒屋「かもす」に行こうと思っていたので長男は自分の自転車で、補助輪のとれていない次男は自分の自転車の補助いすに乗せて出かけた。

 方向違いだが桜並木通りの郵便局でお金をおろしてからジャーマン通りに行こうと思っていたら、長男が「あっちいきたい」と更に方向違いに行くので(そんなに寒くないし)と内川流路巡りをやってみた。第二京浜を超えて西馬込まで行き、そこから戻って大森駅前を通過して「かもす」に行ったのだが、長男は最後まで一緒に自転車にのってついてきた。前の「内川流路」の時子供たちが入院していたことをおもうと感慨深い。

 毎度のことながら何日かかけて更新していく。

西馬込の丘

 現在新幹線と横須賀線が走る、住所でいうと中馬込と西馬込の境あたりでは、内川は西に円形に湾曲して流れているのが大正期の地図に残っている。たぶんその湾曲が線路の下をくぐるのが写真のあたりではないかと思われる。地図を見ると現在も、この辺りから西に線路沿いに水路が残っているようだ。

 写真の背後(下流)には広大な空き地が広がっている。なんの跡だろうかと思っていたら、いつもお世話になるサイトに乗っていた。











 目前には、広大な東京都交通局馬込車両工場跡地が広がっている。ネットで検索すると、この跡地を巡って、すったもんだしている。都から譲り受け大きな公園とする提案もあるようだ。もし、公園となるとすれば広大な敷地なので、萩中公園や平和島公園と並ぶ大公園になる。ただ、土壌汚染があるようなので、しばらくはこのままかもしれない。

馬込二本木公園 - 西馬込1-9: 大田区の公園


 線路沿いに坂を上がると「馬込二本木公園」という公園があり、上記はその公園を紹介しているページでの記述である。内川はこの空き地の中をほぼまっすぐ流れていたのではないかと推測する。空き地の端から、明らかに流路あとと分かる広い遊歩道のある道が続いている。

 それにしても豊洲だけでなく、ここでも土壌汚染があるようである。上記車両工場が昭和44年にでき、おそらく内川もその際に暗渠化されてしまったのではないかとおもうのだが、土壌と同様に内川の水も影響を受けたことと思われる。

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 馬込二本木公園は武蔵野台地の端の起伏の激しい地形の、その丘の中腹にあり景色がよい。


 車両工場あとが広がり、その向こうに第二京浜が馬込坂を通る場所が望める、その向こうには長遠寺とみえる建物が丘の上にみえる。内川が空き地のあった場所を長い時間をかけてこの場所を溶かし削り、この眺めをつくったことが分かる。

 なお空き地についてはつい先日に大正大学学園による、キャンパスにするとの提案が採用されたようである。

馬込車両工場跡地開発事業 事業予定者を決定|東京都

馬込坂下

 空き地から短い道が第二京浜道路まで通り、水路あととひとめで分かる、背の低い植木のある幅の広い歩道がある。道沿いに昔ながらの八百屋さんがあり、店の前におおきな柳の木(だろうか?)が生えている。

 そこから川あとの上を第二京浜道路が通っている。

 五反田方面、現在松原橋という環七道路の上を通る陸橋からこの内川あとまでを馬込坂という。見晴らしのいい直線の下り坂で、確か最近横浜方面に帰るところだったとある俳優さんがこの坂でスピード違反で捕まっていた。気持ちは分からないでもないが真似してはいけない。

 先の車両工場跡の低地は内川が削ったのだろうと書いたが、この馬込坂も同様に内川がつくったのだろうとおもう。内川あとが一番低くなっているのを見るとその印象を強くする。

 この箇所には陸橋が通っているが、そのたもとに内川にかかっていた橋のあとが残っている。昭和三十年代の地図にはもう第二京浜道路や環七道路が通っているのが見えており、その時点で馬込坂下部分は地下に埋められてしまったとみえる。

 近くに馬込坂下の坂名と謂れを書いた柱が立っている。坂の多い東京ではこれがあちこちに立てられている。

「この辺りは昔は水田が広がっていて、内川の清流が流れていた」との説明が書いてある。実際に明治期の写真を見たことがあるが、誇張でないことがわかる。川瀬巴水の木版画『馬込の月』をおもってもよい。この辺りは江戸の外、荏原郡の田舎だったのだ。

 川瀬巴水の名と『馬込の月』は恥ずかしながらテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」という番組で割と最近知った。この北斎、広重と同レベルで国外でも人気ある版画家は江戸の人、芝の生まれだが大正15年、40代の頃に内川の馬込坂より下流、子母沢に住んだそうである。今の大森第三中学辺りだったらしい。

『馬込の月』を製作した昭和5年には南馬込の平張に在住だったとのことである。馬込第二小学校からちょっと入ったあたり。その家から臼田坂上に上り、いまのバス通り沿いに長遠寺前を通って第二京浜通りに出た辺りの光景だったのだろうとおもう。


 橋のあとは南馬込側(下流側)にも残っている。川のあとが歩道になっている様子も、桜並木まで続く。


並木通り

 内川あとが第二京浜を越えてからは、幅のある歩道がほぼ直線に続いており、流路あととしては分かりやすい。ほぼ直線に歩道のある道が南に善照寺という門徒のお寺まで続く。緩く南東に曲がって、この先は歩道に桜が植わっており「桜並木通り」と呼ばれる。

 ほぼ直線なので、人工的に掘られたのではないかと考えてしまうが、地形的にみると実は自然流路に近いかもしれない。地図でみると少なくとも善照寺まではわずかに湾曲しているのが見て取れる。

 そしてこの道より東側は全て上り坂になっている。武蔵野台地の端を内川が溶かしていった、という経緯がみてとれる。



 写真は現在東急ストアのある辺り。右側が上り坂になっている。

 善照寺から先も北東側は全て坂になっている。ちなみに南西には池上本門寺があり、また山である。

 住宅地に変わったいまの馬込では実感を得るのが難しいが、谷底を川が流れている、というのが本来の風景であった。

 今は川岸跡に植えられた桜が年1回咲く頃、谷底に人が花見に集まってくる。広い歩道はテキヤさんが屋台を出す場所として、また花見の場所取りの場所として賑わうことになる。花見に興じる人たちのうち何割くらいが、この場所に川が流れていたことを知っているだろうか。

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内川流路、余録 - 椋箚記