南馬込の磨墨塚

 昨日、今日は長男は幼稚園だが、私は休暇なので送迎バスの送り迎えをする。今日はお弁当なしで昼に帰ってくる日だったが、午後課外教室のようなものがあったので、それにもついていった。

 午前に幼稚園バスを送ってから、散髪に行ってきた。バス通りを歩いて池上通り近くの「カヤノ」まで行く。最近、ここでばかり頭を刈ってもらっている。

 帰りにふと気がついたのだが、臼田坂上に「オダカ」という肉やさんがある。その裏が小さな塚になっていて、碑が建っている。見ると「磨墨塚」とあった。

「磨墨」とは梶原景時が騎乗した名馬らしい。馬込萬福寺には伝梶原景時の墓もある。あくまでも伝説であり、実際にここに梶原景時の亡骸が葬られたというよりは、追悼の意味で立てられたものかもしれないし、全く関係ないかもしれない。ウィキペディアの「磨墨塚」の項には下記の記述があり、梶原氏との縁自体が後世つくられたものでもあるようなのだ。

これらの遺構や伝承と、実際の磨墨や梶原景時との関わりを示す具体的な証拠は無く、あくまで俗説に過ぎない。実は、戦国時代の1559年(永禄2)、後北条氏により編纂された『小田原衆所領役帳』には、太田康資を筆頭とする江戸衆の中に、武蔵国馬込に梶原助五郎、同新井宿に梶原日向守の名が見える。おそらく、戦国期の土豪梶原氏の事跡が、後世梶原景時と混同されたというのが真相のようである。
磨墨塚 - Wikipedia

 それはそれとして、私は「磨墨塚」が現在の萬福寺の境内にあるものとばかり思い込んでいた。寺のそばに「するすみ園」という霊園があったりするからである。上記情報によると、この碑自体は昭和初期に建てられたもののようだ。塚は江戸期までは遡れるらしい。昭和初期といえば、作家や画家が「田園地帯である」ここに多く住んでいた時期で、その田園風景のなかに塚がぽつんとある感じだったのだろう。

2017年8月の加筆

 はてなダイアリーの方の当エントリーに面白いコメントをいただいた。以下私の返信も含めて転載。

梶原 2017/08/13 00:28
突然、投稿してすみません。こちらのブログ内容とは直接関係ありませんが、小田原北条家家臣の梶原家が存在するのでお伝えしたくて投稿しました。
北条水軍を指揮した梶原吉右衛門景宗です。北条氏康熊野水軍の梶原家に依頼し、梶原景宗一族が北条水軍に加わったことが始まりです。
梶原景宗一族を調べていますが、今のところ梶原助五郎、日向守の名前を確認することはできていません。
実は当家が、この梶原景宗の末裔であることが判明したので、ついつい投稿してしまいました。
当家は藤堂藩家老の梶原家の末裔で藤堂藩に仕官したのが関ヶ原戦い後のため、藤堂藩に仕官する前はどうしていたのかを調べていました。
いくつかの古文書から整合性が取れ、小田原北条家水軍の梶原景宗の末裔と確定できた次第です。
北条家滅亡後は、梶原景宗の嫡男は、小田原海戦で討死、その嫡男の長男が石田三成の父方を頼り西軍で関ヶ原を戦い、・・・と藤堂藩に仕官するまでを説明するにはかなりの時間を要しますので
ご興味があるようでしたらご連絡ください。
ちなみに、梶原景時一族の末裔かは、断定できる資料が今のところ出てきません。
ただ、梶原景時の四男?景義の末裔が兵庫県高砂城主梶原景行で、その末裔が淡路沼島水軍、熊野水軍梶原家と受け継いだという言い伝えはあります。

関係のない投稿をしてしまい申し訳ございませんでした。

私の返信 2017/08/15 11:57
梶原様
コメントありがとうございます。馬込の梶原氏については本文の引用ぐらいしか分からず貴重なお話しです。

梶原景時が討たれて一族滅亡となったのが1200年。
梶原景宗の最後の動向が1590年の北条氏直からの返礼の書状。

ざっと350年後の人物ですね。なお梶原景時が討たれたのが駿河であることなどから北条氏が有力御家人の排除に動いていたという説が「梶原景時の変」のWikipediaの記載にあり梶原景時は実質北条時政に排除されたとみるならば梶原景時の末裔が北条氏に仕えるなんてことがあるのかな……とも、300年以上経てば話も変わるか……とも思います。

馬込の梶原氏についてはその後もわからないまま書いていますが梶原等さんの『梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士』辺りを改めて読んでみるかなと思うようになりました。

馬込の地名 梅田と根古谷
mukunokiyasuo.hatenablog.com

2018年5月のコメント

 上記の続きである。

梶原 2018/05/28 21:25
ご返答をいただいているのを気づきませんでした。
申し訳ございませんでした。
梶原景宗のウイキペディアの編集が完了いたしました。良ければ参考にしてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E5%AE%97
北条水軍の梶原景宗の子孫も、豊臣方に北条氏が滅ぼされましたが、
北条氏滅亡後は石田三成の舅の尾藤頼忠のところにに身を寄せています。
豊臣が滅亡後は、徳川方の戸田左門預かり、その後、本多家に仕官と生きるためには
背に腹はかえれないということだと思います。
ですので、梶原景時の末裔も誰に滅ぼされたかは問題ではなく
戦国の世を生きるために、誰に就くかを考えたのではないかと思います。
梶原景時自体、源氏の家人から平氏に従って、源頼朝の家臣になるわけですので
戦国の世をいかにして生き抜いていくか、上を目指せるかと考えたのではないでしょうか。

以下は私の返信。2018/05/29 23:24。

梶原様
「梶原景宗」のウィキペディアを読ませていただき、脚注の記載が標準でないことに気がつきましたので失礼ながら修正させていただきました。内容ご確認いただきますようお願いいたします。

また、ウィキペディアは個人の研究ノートではありませんので、「このことは、今後調査をしていきたい」「梶原家が古田織部切腹に関わっていたことは興味深いところである」「そのあたりは、はっきりとした証拠がないのでなんとも言えないところであるが、いずれにしても、梶原 景宗の家紋は、矢筈の家紋であることは間違いないであろう」という記述はふさわしくない書き方だと感じています。その点はノートにも記載しておきますので、中立的な書き方とできるよう工夫いただくことをお勧めいたします。