椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

馬込の地名 梅田と根古谷

 大阪でタクシーに乗って「大阪駅まで」と行き先を伝えたら「梅田ね」と言い直された、と文句をいうよそから出張に来られた方の話しを聞いたころがある。確かに大阪に住んでいれば「梅田」という方が自然なのだがタクシーの運転手さんも偏屈過ぎたようだ。

 

 現在の大阪の梅田は大阪駅の周辺に百貨店やヨドバシカメラが集まっていて一大繁華街だが、もとは「田んぼを埋めて町にしたから」という由来で梅田という地名になっているのはよく知られている。

 

梅田

 馬込にもこの梅田という地名があるがかつての小字であり町会の名前にもなっていない。ただ小学校の名前になっているので地図には遺っている。町会でいうと南馬込西一会に属している。また大田区の防災マップをお借りする。

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お借りした PDF のリンクはこちら → 大田区ホームページ:わがまち防災マップ 南馬込西一会(PDF:3,649KB)B)

 

 地図の左下の緑が梅田小学校。この馬込の梅田も大阪と同様に「田を埋めたから」という由来だろうとおもう。角川地名大辞典の東京都の巻には「深田を埋めて宅地にしたので梅田という、と『新版大森風土記』にある」と引かれている。『新版大森風土記』は一九三五年(昭和十年)に刊行されたという書物で、未読のため梅田の地名の由来をどのように採取されたのか現時点では分からない。なお馬込第二小学校と同様に梅田小学校のあった辺りにも池があったという話しを聞いたことがある。それらを埋めたててしまったのだろう。梅田小より南は坂になっていてその丘の向こうは池上本門寺。梅田から丘を越えて本門寺の方に下りて行く坂が貴船坂である。

 

 お借りした地図に引いた水色の先は旧内川流路になる。馬込の複雑な地形をつくった主役の小さな川でこの地図の部分においては全て埋められて暗渠となっている。なお南馬込西一会は梅田小学校辺りまでだが、梅田はその西にある都営地下鉄の馬込車両検修場も含む地名である。この敷地の一部がかつて力道山の邸宅であった。彼の邸宅は梅田町34、という住所だったと聞いている。

 

根古谷

 梅田から内川に沿ってちょっと北に歩いた辺り、現在湯殿神社がある辺りを根古谷(ねごや)というらしい。らしい、というくらい現在は余所者からは分からなくなっているが、馬込八幡神社狛犬をしげしげとみている時に初めてこの地名に気がついた。

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馬込八幡神社狛犬の奉献の日と石工か願主の銘らしい刻字。「根古谷 鈴木平吉」とある

 

  ねごや、という言葉を知らなかったので当初ピンと来なかったが「根小屋」とは我が国中世、特に東日本において「山城の麓にある屋敷、及び屋敷の周りに形成された集落」を意味した言葉だった。実際同じような地名が関東近辺には他にも見つけられる。なるほど内川沿い辺りは湯殿神社より北及び東は山になっているが現在の第二京浜道辺りまでは概ね平地となっていて集落を形成するのに良い地形だったかもしれない。

 

 平凡社の『東京都の地名』には特に典拠は示さないが「梶原三河守の屋敷跡と伝える」と記しているが、この人物は梶原助五郎、梶原景時の子孫で北条氏直の家臣だった人物を指すらしい。北条氏直というと豊臣秀吉に攻められて降伏した時の北条家の当主。

 

 馬込で山城、というと私などは太田道灌を先に思い浮かべる。今は既に絶版となっているが大森駅前にあるハーツ&マインズ社(月刊おとなりさんを出しているところ)の西村敏康さんが刊行した『学校裏から始まった2』には太田道灌が築城の候補地として馬込の天神山(北野神社の辺り)を考えていたという話しが出て来る。

 

 ただこれなど伝説の類でもあるので太田道灌から百年ほどあとの山城の根小屋だ、という方が現実味があるのかもしれない。北条氏豊臣秀吉への降伏で馬込の梶原氏がどうなったのか、そもそも本当に梶原の支族がいたのか分からないが、江戸期以降天領となった馬込村にどのように山城のあった時代のことが伝えられているか、もう少し調べてみたい気がする。

 

馬込の地名シリーズ

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