固定観念

 5月13日の日曜日の稽古は子供の部から普段より大人の方が来られていて、普段子供の稽古をみたりしているところ、師範代の先生と稽古させて頂いた。

 というか、師範が私をつかまえて頂いた。本来私が行くのが正しい姿なのだが誠に申し訳ない。

 かなり集中して稽古したのだが、正面打ちから一教の抑えを稽古した際、裏が出来ていないことに気づくこととなった。裏(相手の背中側)に入って抑えるはずのところが、体が崩れていないので腕だけ後ろに引っ張ろうとするような姿になってしまった。

 正面打ちを抑えた時に、手首をしっかりつかんでしまい、そちらを後ろに引っ張るような技になってしまっていた。抑えた時点では手首は手刀で制した状態、肘をつかんで、肘を下に崩してくることで体も裏に崩せる、という指摘を頂いた。

 一度形を覚えてしまうと本来その形が意味する技というものを考えずに稽古してしまうという悪い例であったと気がついた。

 植芝盛平翁先生は「体の転換と一教の抑えが出来ていれば二段を差し上げる」と仰っていたと聞いており大阪市大の後輩にもその話をしたことが何度かあるのだが、その言葉が自分に返ってきてしまった。

 また、両手取りからの天地投げ、座法呼吸法といった持ち技の稽古でも指摘頂くことができたが、「諸手持ちの呼吸法と同じようにしてみたらどうですか」との助言を頂いた。

 諸手持ちの技の場合は相手の裏に入っているから出来ている、というのはあるかもしれないが技が違っても同じ理合いを使っているのではないか? という視点がまだ充分でないことに気がついた。一度持ってしまった固定観念から離れられないで稽古している、というか。

 この日の最後の1時間の稽古は子供の部の時とうって変わってひとが少なかったので、広く畳を使って稽古ができ、ここでも気づくことが多い日だった。