椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

買占めの向こうになんとなく見えたこと

 オイルショックの際に主婦がトイレットペーパーを求めて店に殺到した、というのは話しとしてしか知らなかったが、このたび改めて調べてみたら1973年(昭和48年)の11月以降の話だった。なんとなく、自分が生まれた尼崎市塚口に住んでいた、ごく幼いころのことなんだろうぐらいに思っていたが間違いで、奈良市に移って市立二名幼稚園に通っていた頃の話だ。

 後に母親に、うちもトイレットペーパーを買いだめに行ったかい、と聞いてみたら「うーん、なんかばからしーなーと思ってて、行かなかった」と返ってきた。痩せてて小柄で線の細い神経のひとだったが、いざとなると大胆なところもあり、トイレットペーパーなんかまた店に並ぶわよ、ぐらいに思ってしまったのかもしれなかった。

 だが、当時私が5歳、妹が3歳、ティッシュペーパーやトイレットペーパーが足りなくなったらどうしよう、と一瞬でも思わないことはなかったのではないかとも思う。それでも安易な行動を採らなかったという母親を、少し尊敬している。

阪神淡路大震災の時

 当時私は大阪城を臨む森之宮の公団住宅の11階に住んでいた。大阪も被害はあったにせよ淡路島や神戸に比べるとましで、翌日からは仕事場に出て、仕事にならないので梅田に献血に行ったりしていた。

 店の商品は水だったり、おにぎりだったり、カップ麺だったりが一時的に全部売れてしまって無くなったような気がするが、今となってみると一人暮らしの気楽さもあったのだろうか、あまり困った記憶がない。

 ただ、だいぶ後になって、地震当時関西とは別の場所に住んでいた方の話で、地震の第一報を聞いてすぐにコンビニエンス・ストアに走り、店にあった水を全部買って即宅配便で西宮だかの実家に発送した……という話しを聞いたことがあり、そういえばミネラル・ウォーターは入手しづらかったかなぁ、と思う程度である。

マスク

 前の冬、つまり2009年の冬から豚インフルエンザが流行した。すでに現在季節性インフルエンザと同列の扱いとなっているが当時はうつらないよう戦々恐々となり、マスクがたちまち店頭から消えた。

 マスクが入手しづらくなり始めたころ、雑色のオーケーストアに家族で買い物に行ったらマスクが箱で山積みになっており、何個か買った。

 家内がさらに買い物かごに入れようか聞いたので、それくらいでいいんじゃない? と私は答えたのだが、その後みるみるマスクは店頭から消えてしまい、どこに行っても品切れ状態になってしまった。

 私は今に至るまで家内に、あのときあなたが言ったものだから……と苦情を言われることとなっている。マスクはだいぶあとになって、ご近所さんとネットでまとめ買いに成功し、今でもインフルエンザ対策及び花粉症対策でネット購入した使い捨てマスクを使っている。

このたびの大地震後の商品買占めにおもうこと

 3月11日(金)のマグニチュード9.0という未曾有の地震に始まる東日本大地震が続くなか、われわれ日本で暮らすものたちはとてつもない困難に直面し、なんとか切り抜けようとしている、その道の途中にある。

 福島第一原発の事故という二次災害があり、電力供給に支障が出ているが(原子力発電所に偏重しなければ支障は出ないという指摘が出ていることは知っているが、いったん措く)国を挙げての節電でなんとか乗り越えようとしている。これは節電が即被災地への支援になりうるというキャンペーンが成功している側面があるような気がする。

 一方で今被災地に充分な物資が行き渡らない、都心部ではあらゆる店からトイレットペーパー、ティッシュペーパー、おむつ、米、パン、即席麺、冷凍食品といった商品が買われてしまい、店頭から姿を消す事態が起きている。福島第一原発の事故が深刻さを増してきた一昨日13日くらいから特に顕著になっている。

 実は我が家はたまたま長男がインフルエンザにかかり、タミフルを服用して目が離せないという事情があり、専ら私が仕事の帰りに買い物をするようになっている。週末私がいる時に家内がしばらく出かけられないのが見えていたので、必要なものはひととおり買っており不自由はしていない。

 でももしかしてタイミングをそこねたら、店から無くなるからというので我が家も商品の買占めに走っていたかもしれない、と思うし、現に山口にある実家から必要なものを追加で送るよう、お願いしていたりもする。

 私としては40年ほど前に母親がおもったように、しばらく様子をみておけば落ち着くよ……とどこかで思っていたりするのだが、マスクのように買い損ねたらどうするのよ、と家内に言われれば返す言葉はない。母親は既にこの世に無く、自分が8歳と6歳の子を持つこととなった今となっては、家内と一緒にリュック背負って唯々諾々と買出しに出かけることになりそうである。

 でも、それはどこかおかしいんじゃないか、という思いが消えない。

 早いもの勝ちでお金をたたきつけて買ってしまうものが勝ちなのだろうか。

 それは大声で自説を唱えるものが結局論争で勝ってしまうことに似ているような気がする。

 全体が見えていない状態では、声が大きいものの説に従わないと都合が悪いような気がしてしまうが、全ての情報を共有できているならば、長い目でみて本当に正しいのはこっちなんじゃ、と気がつける機会が増えるのではないだろうか。それはきっと、声の大きさになんか左右されない。

 被災地に必要な物資は何で、それがどのように流れているのか。その情報が共有できているならば、都内や横浜のスーパーマーケットの店頭のティッシュペーパーが全部売れてしまい、正しくない需要で生産が行われる割に本当に必要なところへは商品は届かない、というようなことは起きないんじゃないだろうか。

 買占めなんかするべきではない、という意見はあって、多分だたしい指摘なんだろうけれども、おそらく買っている人の七割以上は買占めに走っているという意識は持ってないんじゃないかと感じている。ただよく分からないから、不安にかられて買いためているだけなのではないか。

 じゃあ必要な情報はだれが提示して、共有させてくれるのか。

 国が出来るだろうし、スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアのような大企業も出来るだろうとおもう。我々はそれを求めていくことが出来るし、もしかしたら国や企業に頼らずにその情報を共有し、自制できる能力を持ちつつあるんじゃないかともおもっている。

 具体的にその答えをここで形にする筆力や着想は私には無いのだけれど、ここで書いたことは何かの踏み台にはならないだろうか。