煩悶

 本日、家内と子どもたちを一時的に実家のある山口に移動させた。

 東日本大地震の二次災害である福島第一原子力発電所の事故は現場の方たちの懸命な作業にも沈静化せず、本日あたりから関東から西日本へ避難する人が増えているようで、私の家族たちもそうだった、ということになる。

 災害が沈静化するまで実家に避難しておくか、ということについては数日前から家内とは議論をしていた。私は、都内においては放射性物質による汚染はほとんど問題なく、できれば通常通りに生活を続けるのが良いのではないかと考えていた。むしろ安易に「避難」することで、回りの方々の不安を煽るようなことは避けたいと考えていた。今朝の時点でもそうだったし、本当のところは今も考えは変わらない。

 それでも「避難パニック」の一部になるという選択を私はした。判断を下して以降今に至るまで、ずっとその判断が正しかったのか反芻し続けて悶々としている。

 以下は自分の判断に対する言い訳であり、自分のための整理である。少しだけ、いつの日か子どもたちがこれを読んで、理解ないし批判を加えてくれることを期待しつつもある。

ひとつめの理由

 前述の通り、今朝の時点で家族を実家に避難させるという考えは持っていなかった。日中、家内なりのきっかけと考えがあって仕事場に電話があり、やはり早急に移動しておいた方がいいのではないか、という相談があった。

 家内をなだめて、せめて明日以降、来週の子ども達の卒園式、終業式のあとなどに移動させるよう話す選択肢もあったが、即時の移動を決めてしまったのは何故だろうか。

 ひとつは、本当に子ども達に放射性物質が悪影響を与えるようなことが無いと、本当に言い切れなかったことにある。

 たちまちに子ども達の具合が放射線の影響で悪くなるようなことはないと断言できるだろう。しかし、30年後、40年後、50年後もそうか?

 蒙昧という言葉を甘んじて受けなければならないが、私や家内はともかく、親として8歳と6歳の子が大丈夫だと言い切れない限り、家内を押し止めるのが正しいのか確信が持てなかった。

 さらに言えば、もし移動を来週にした場合、飛行機なり新幹線の席が押さえられるのかも不透明だった。この判断についても、軽率との謗りは免れないとおもっている。それでも判断を下したのにはもうひとつ重要な理由がある。

ほんとうの理由

 その理由というのは、長男のため。

 3月11日に最初に大きな揺れが来た時子ども達は兄弟とも自宅におり、小学校低学年の長男は熱を出して寝ていた。翌12日に小児科で検査を受けてインフルエンザA型と判明するのだが、その時点は38度台の熱を出して横になっていた。

 そして家内はたまたま表に出ていて、もうすぐ家につくというタイミングで揺れた。仕事場にいた私はすぐに家内の携帯に電話し、マンションの廊下にいることを聞くとすぐに子ども達のところへ行くよう頼んで電話を切った。

 運悪く両親がいないところで、かつ体調の悪いところで揺れに出会ってしまった長男はかなり動揺していたらしい。ここら辺、社交的、積極的ではあるが最後は回りと協調しようとする彼の優しい性格も、ショックを受ける一因となったかもしれない。

 次男は積極的な性格は兄と同じだが最後まで我を譲らない強さを持っていて、あの大地震のさなかでもどこか面白がるようなそぶりすらあったらしい。

 その後次男はいつも通りの様子でいるが、長男はここ数日たまに母親に対して地震への不安を口にしたり、寝るいるあいだに激しくうなされたりするようになった。うなされるのはもしかしてタミフルの副作用なのではないかと家内と話しているが、唸り声を上げながらあちこち蹴ったり物を投げたりして暴れる。

 起きているときはわりと普通なのだが、家内がぽろりと山口に帰ろうか、というアイデアを口にしたら祖父母に会いたい、従兄弟に会いたいと私に言ってきたりした。

 その様子をみていると、親としては心的外傷後ストレス障害PTSD)などを連想せざるを得なかった。長男の性格から、多分私が「待て、我慢せよ」と言えばそれに従い学校に通っただろうと思う。ただ、以前急に溶連菌感染後急性糸球体腎炎で入院することとなった後も病院を恐れるようなそぶりを彼が見せるようになったのをみており、長男に我慢させることが親として正しいこととはどうも思えなかった。

 来週になれば春休みに入ってしまうこともあり、いっそ気分転換に祖父母に甘えに行かせるか、という判断が先にあって、原発事故云々がそれを後押ししたというのが本当のところであろうと自分の判断を省みている。

 この私の判断、特に子どもの心の問題についての判断が、正しいことがあとで分かれば良いとおもっている。