受け身の美学
「全日本少年少女合気道練成大会」という催しに子供ともども参加してきた。
日本武道館が主催で、合気道だけでなく様々な武道において子供達を対象に練成大会を開くもの。
このタイムスケジュールが1日がかりで、朝9時に集合、9時半〜10時頃に開場となり子供達と私と道着に着替える。12時から開会式、そのあと年齢で3部に分けて稽古、そのあと各道場の子供達が演武をやって終わるのが16時半頃。
子供たち、特に上の子が途中でやる気をなくして態度が悪くなり私が叱責……というようなことがあったり。まぁそれでも、日本武道館に小学生の頃に立つなんて経験は私など思いもつかなかったので、遥かあとになって子供が何か感じてくれたらと思ったりもしつつ。
さて、各道場の演武のあとに合気会の本部道場の師範による模範演武があり、子供達に見せておくべくやるのだが、最後に植芝充央本道場補佐の演武があり、私も前のめりに見稽古させて頂いた。昨年の全日本演武大会では子供のトイレかなんかでみることが出来なかったので。植芝守央現道主のご子息、翁先生の曾孫になる。
技は切れのあるものだと見ていたが、2人おられる受けの方のうち、最初にとられた方の受け身が非常に美しいものだったので感心しつつ見ていた。昨年の全日本演武大会の映像を Youtube でみると(あまり画質の良い画像ではないのだが)同じ方のようにおもった。
「美しい」というのは武道においては必ずしも褒め言葉になるとは限らないだろうが、この場合私が「美しい」と感じたの端緒は大阪市立大学合気道部に現役でいたころに遡る。
合気道部においては受け身についてどう言われていたのかというと「音なんか立てるものやないぞ」というものだった。私の3代前の副将の先輩がそのような受け身をできる方で、2代前の副将の先輩も同じ美学のもとにあったと記憶している。実際は畳に叩きつける音が大きければそれはそれで迫力があったりするのだが、その衝撃を完璧に吸収できるような受け身が賞賛された。
といって「音を立てない」というのが目的になってもいけないわけで、「演武で受けを取るな。受け身を取れ」なんてことも言われた。
つまり、形を綺麗に見せるためだけの受けは、つくって受けを演じているので、そうじゃなくて技がかかった通りに受け身をとって美しいのが優れた演武だ、という考え。
普段の自分の考えを振り返ると40歳過ぎてもその考えの影響下にある。
で……最後に。客席から見ていた妻があとで一言。「うちの道場の子供ら、もうちょっとしゃきっと投げられんのかな」。それが普段だから……ということなのだが。
まず礼儀が出来て次に技だ、という順番だと思うので、まだ礼儀を教えてる段階なのかもしれない。
あと演武のための練習に時間をつぎ込み過ぎるのはやはり不毛で(上記「受けを取るな。受け身を取れ」に通じる)普段から臨機応変に動けるように稽古して、それが演武でできるというのが理想なのではないかと夢想している。