派遣村と桜屋敷

 下記を読んでいてふと、思い出したことがあった。

「派遣村」叩きに日本の国民性を思う - 玄倉川の岸辺






寒空の下で路頭に迷う経済弱者を温かい屋根の下にいるものが批判し、自己責任のお説教をして切り捨てる。そんな冷たい「空気」を感じ取った政治家が失言し、批判を受けて撤回された失言を「正論だ」と支持する人たちがいる。彼らがどれくらい多いのか、あるいは少ないのか本当のところはわからないが、2ちゃんねるやYahoo!のニュースコメントでは多数派を占めている。

「自己責任」ということだとイラクでの邦人人質事件などもあるが、もっと身近なことだ。

東馬込から、関門景観の話へ - 椋箚記

 桜の見事な屋敷を取り壊してマンションにする、という話があり付近の住民が反対したところ、テレビのワイドショーなどで取り上げられた。それにネット上批判が集まった、ということがあった。

派遣村」についてのネット上のコメントについても、一部の意見が突出している印象を与えているのかもしれない、という気がする。たとえばブログならブログ、SNSならSNSと場を決め、一定の条件により意見を集計して統計結果を得るようなことをしないと正しい判断材料にはならない気がする。

 ただ、そういう意見が突出してあたかも大多数の意見であるかのように見えてしまう、ということについては分析を加える必要があるとはおもう。

 玄倉川さんの紹介された「日本人は他人を信頼しない傾向が強い」という分析を前提にして更に話を進めると、民族性がどうこうという結論で話をするのはよろしくないのでないかと考えている。日本人がそのような傾向を現在有しているのならば、それには理由があり、その理由をつかんだうえで是正すべきは是正する、という態度が必要だろうとおもう。

 ひとつは現在振り込み詐欺の横行で、注意を喚起するようなことがしきりにされていることがあるかもしれない。

 中途半端な都市化が全国的に進んで、地縁のようなものが切れてしまったことがあるかもしれない。

 政治・行政がひとが連帯することを望まず様々な対立を生むような情報だけが出ることを嗜好し、大手メディアがそれに従っているということがあるかもしれない。

 それらの背景には立法・行政の無策が見え隠れする。「派遣村」のひとたちを敵視するような意見には「分断して統治せよ」の意思が隠れていると思ってよいのではないか。一部の大手企業が売る利益を存続させるために、土地政策で一部のひとが得る利益を存続させるために。




(2009年1月19日加筆。言及したのを機会に桜屋敷の変遷を写真に。桜を切る前の写真がなくて残念)


2009年1月現在


2005年11月工事中。桜の切り株だけが見える。