駆け足近江の旅 - 湖水浴

 8月5日に祖母の五年祭を実家で行ったので実家の須佐に戻っていた。そのあとに家族で関西を旅してきた。

 まずはユニバーサル・スタジオ・ジャパンで一日子ども達を遊び倒させたのだが、次の日に近江湖東に向かった。社会科で都道府県や県庁所在地など学習している長男が「びわこを見てみたい」と行ったことから決めた旅程だった。

 近江は独身時代に何度かふらっと旅して歩いたことがあった。湖西に電車で行ったこと。湖東を車で走ったこと。そのまま敦賀の方に行ったこともあった。当時はEOS650にネオパンSSだかのモノクロフィルムをセットして抱えて歩きまわっていた。

 その時の写真が残っていればいつ旅行したのか振り返ることができるな、と過去のアルバムをひっくり返して見たのだが綺麗にその時期の写真を残していなかったので我ながら呆れた。大まかに1994年から2002年の間だったろうとしか覚えてはいない。ざっと15年前から10年前といったところの風景だ。

 湖西線のどこかの駅が乗った電車の終点で、ふらふらと駅前の路地を歩き、ふと入った定食屋で「お昼はやっていない」と言いながらおでんを食べさせてくれたおばちゃんのこと。湖岸を歩いていて沢山人が集まってるな……と思って近づいたら時代劇の撮影だったらしく慌てて邪魔しないように逃げたこと。まちなど見ずに当時の仕事上関係のあったお酒のディスカウントチェーンの店舗を覗いて過ごしていたこと。

 その程度の記憶をぶらさげて行った。10年以上経てば湖岸の風景も変わってはいるだろうとおもいつつ。あと、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の第一回は近江『湖西のみち』だが今回行先とはちょっとずれているな、と思いながら。

松原水泳場

 宿が彦根の駅前のホテルに取れていたので大阪から新快速と快速を乗り継いで彦根まで一気に移動した。8月9日のこと。

 駅前にある平和堂でひと休みし、一階のカフェスペースのあるベーカリー「Boulanger Cent」という店で昼食を取ったのちにレンタカーで車を借りにいった。幸いにも当日返却で1台借りることができた。

 この度は「子どもに日本一広い湖を見せる」という大きなテーマがあったので、車を湖岸に向けた。彦根城の北東の堀沿いの道から湖岸道路に入り、北に向かう。

 ちょっと行くと「松原水泳場」という看板が出ているのをみつけ、迷わず左折して側道に入った。

 実は旅に出るまでの準備でガイドブックを繰り返し読んでいたが、泳げる場所の情報が得られないので不思議に思っていた。次男が「およぎたい、つりがしてみたい」というのであれこれ調べてみたのだがみつけられず、現地で探す方が早いだろうと思っていた。

 水着に着替えると次男は言い出しっぺあって躊躇なく日本一の湖に飛び込んでいった。長男は左肘の骨折が癒えて間もないせいか足をつけるくらいで、私も水着には着替えていたがこの旅行中腹具合が良くない状態でほどほどにしていたのを尻目に沖に行っては戻りを繰り返していた。

松原水泳場

天野川初訪

 一時間ほど泳いだ後に湖岸道路を自動車で北に走った。次男はもうひとつ「つりをしてみたい」というのだが、果たして琵琶湖に釣り場というものは存在するのか。看板など出ていないかと目を凝らしながら移動した。

 大阪では千里付近、東京では馬込という、住宅地としては誠に急峻な土地で過ごして長いので琵琶湖岸の平らな土地が続く景色というのは目新しい。知らない景色でありながら、敢えて言えば遠くに伊吹山をはじめとする山並みを望む様は奈良盆地に似ているかもしれない、とおもった。奈良は幼稚園通園時から大学卒業までのほとんどを過ごした土地なので引き寄せて比べることが出来る。ただ、奈良盆地が湖を擁していたのは遥か太古の話しだし、私の知っている奈良はところどころ田畑を維持できず住宅地や道路に潰されている土地でもあるのであくまでも「敢えて言えば」の比較でしかない。

 米原に「近江母の郷」という道の駅があったので車を止めて一休みしたのだが、そこで天野川を越えてまったことに気がついた。

 天野川は湖東のほぼ中程で琵琶湖に注いでいる流れになる。古名を息長川(おきなががわ)と言い、この息長川について私は『息長川ノート』というまとまった文章を書いた。


息長川(おきなががわ)ノート by 椋 康雄 マチともの語り-地域・物語り・短編小説*1
okinagagawanote.pressbooks.com


 実のところ書いている現地に足を運ぶことが充分で無いまま書いたためある程度大阪で、そしてこの近江で追加取材ののちに改稿するよう考えている作品である。折角ここまで近くに来たことだし、最初の目的である湖水浴が出来たあとでもあったので少し戻って天野川をこの目にうつして行くことにした。

 新幹線と米原バイパス道が天野川を渡る辺りに車を停めて、家内に待ってもらって川沿いを歩く。子ども達が、ついてきた。

 琵琶湖に注ぐ流れは多いのだが、天野川はこの辺りでは一番大きな川と言って良いかと思う。古名の息長川はカイツブリを指す息長鳥に由来するようで、そもそも琵琶湖の異称として「カイツブリのいるみずうみ」の意を表す「鳰海(におのうみ)」がある。恐らくは万葉集の成立期にはカイツブリの姿が多くみられたのであろう。当日姿がみられたのは専らダイサギの白い姿だった。

 米原バイパス道の歩道の橋から川を見下ろすと鮎だろうか、結構な大きさの魚がゆうゆうと泳いでいるのが見えた。サギの姿しか見えないのは季節などのせいではなく、あるいは琵琶湖に増えたときくブラックバスとも関係があるのかもしれない。貪欲な性質のブラックバスは共通の餌である小魚を食い尽くすだけでなく水鳥の雛が泳いでいるのも捕食するのだそうで、この外来魚の侵入が水中だけでなく水上の生態系にまで影響を与えたからなのかもしれない。

 子ども達に魚を指さしたり、サギについて教えたり、なぜ父がこの川を眺めているのか話したりしながら川岸を歩いた。

 日本書紀に記された壬申の乱の古戦場である「息長横河」は恐らく息長川(天野川)に支流が流れ込む箇所のことなのだろうが、息長小学校のある能登瀬の辺りか、もう少し上流の醒ヶ井の辺りか、あるいは更に上流のかつ支流の流れる梓河内の辺りか、改めて歩きたいと思いつつ車を湖岸に戻して行った。ちなみに河口近くには蛭子神社という社があり、ここもいずれ訪れてみたい。

 結局国道8号線から塩津街道が脇道に分かれるあたりまで来て、奥琵琶湖を車中から眺めたところで折り返して帰った。廃墟となったドライブインの前辺りだった。あとで古戦場賤ヶ岳の側まで来ていたことを確認した。

*1:machi.monokatari.jp は既に停止している。『息長川ノート』は現在別の場所にまとめて公開している。