固め技における「参った」の意味

 7月11日の土曜日、足立区綾瀬の東京武道館大阪市立大学合気道部の関東在住OBによる研鑽会を行ってきた。

 

 先月6月17日には旧三商大神戸大学一橋大学大阪市立大学)の合気道部関東在住OBの会合を開催していて、その時に「場所と日時はご案内します」と話していた。今回は実際は大阪市立大学のOBだけが集まったのだがこういう稽古の機会があっても良いかと思われ、今後開催する時には案内していこうとしている。

 

 前半は人数が少なかったが上記OB会合に同じく参加している先輩と確認する時間が取れた。なんの確認かというと合気道部が旧三商大戦(合気道の場合は合同稽古)を始めてもうそろそろ50年が経つので何か企画しようとしているのだがそもそも我々大阪市立大学合気道部の初め頃がどのようであったのかが資料が十分に残っておらず、そのことについて年表などを見直していた。結果として初代西岡先輩が在学中に癌で亡くなられたのが1969年の8月であるはずのところ、部誌の名簿に謝って70年6月と書かれてしまっていたのを見つけ現役生と連絡を取って修正する段取りをつけたりしていた。

 

 若いOBが来てから結構しっかり基本技を稽古したのだが、その中で面白いひと幕があった。押さえ技で極まって動けなくなったら受けは「ぽんぽん」と畳を叩いていわゆる「参った」の合図をする。プロレスだの格闘技だので横文字で「タップ」と呼ぶものだが、若いOBたちはこれを「技が痛いから叩くんだと思っていました」というのである。

 

 これは、違う。話しをしていて勘違いをしていることに気がついたのは先輩だったのだが私などは勘違いしていること自体に気がつけなかった。さすがよく見ておられるものだと感じ入った。

 

 合気道の技というのは一教から四教だけでなく小手返しにせよ四方投げにせよ逆関節というものはない。肘固めはどうか……というのは常に言及されるのだが、肘固めが例外というよりは合気道においては肘固めも肘を逆に極めているというよりは腕を螺旋に導いて肘と肩を伸ばして動けないように押さているのではないかと自分などは思う。

 

 だから押さえ技の場合「痛いかどうか」ではなくて「これ以上動けないか」でその技をいったん終わらせるかどうかを判断する。終わりを宣言して次を続けるために「参った」している。押さえられて立ち上がろうとして(これはもう動けないな)と判断したら畳を叩くし立ち上がれれば返してしまう。そして、どこが甘かったかを指摘し合う。

 

 植芝盛平翁先生もインタビューか何かで「合気道の技は関節のかすを取るものでやれば健康になるものだ」というようなことを言われていた記憶があったので探してみたが見つけられなかった。もしかしたら覚え違いかもしれない。『植芝盛平合気道』では巻末でラジオインタビューの書き起こしが収録されているがこの時には翁先生は気持ち良さげに合気道の精神的な部分を話されていてインタビュアーがついていけておらず、関節技は云々といったような分かりやすいお話しはされていない。手元に置けていない続編の方だったろうか。

 

 

 

 

f:id:mukunokiy0725:20150711171349j:plain