白鵬の立合いの変化についてのあれこれ

 相撲を積極的に見なくなって久しいのだけれど先の2016年春場所の千秋楽、白鵬日馬富士との取り組みでの立合いの変化で白鵬が勝った話が読もうとせずとも目に入ってくる。下衆な言い方をすれば香ばしいなとおもいながら読んでいる。八百長問題で複数の力士廃業が出たのが東日本大震災直後の2011年だからそんなに時間が経っていないが白鵬を非難する意見、擁護する意見がどちらもあちこちからあがってくるのをみているとやはり多くの人が大相撲が好きなのだなと感心する。

 

 このブログ記事を読んで、ブックマークコメントにも目を通していたのだが白鵬に対して批判的でこの記事をかいたつちださんにも批判的なコメントが多いのを不思議におもって読んでいた。

 

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合気道なんていう変化ばかりの武道をやっていたせいか」というのが合気道のどの部分を「変化」と捉えているのだろうか……などとおもっていたが私の大阪の師範道場の名前にも使われている「武産」ということばも「技が次々と生まれてくる」というような意味をもっているからそういう辺りを指しているのならおおきく外していない表現かもしれない。実際書いてあることにあまり離れていない考えを自分も持っていることに気がついた。

 

  一方で批判的な意見も様々だがなんとなく類型化しながら読んでいた。今更な感じだが書いてみるとこんな感じになる。

 

横綱の相撲としてふさわしくない技を使った

 私は「横綱らしい」とか「〜らしい」ということばの使い方については眉唾だとおもっている。ただ非紳士的行為であるならばそれは指弾されても仕方がないのではないかとおもう。

 

 非紳士的行為というとどんなものかというと相撲でいえばガッツポーズするとか仕切りの最中に挑発行為をするとかだろうか。漫画だけれど『ああ播磨灘』で播磨灘が勝ったあとに相手力士を罵倒するとか。この作品での播磨灘の振る舞いは、横綱という地位を得たからこそのトリックスターを描いているので同じことを裏側に表現しているといえるのかもしれない。

 

 

 ネイマールのプレーを例に出しているコメントを見かけたが自分はかつて柏レイソルに在籍していたことがあるエジウソンが1999年のコリンチャンスパルメイラス戦で試合中にリフティングしてみせて乱闘を誘発したのを思い出した。

 


Corinthians sagra-se Campeão Paulista 99 com direito a embaixadinha de Edílson

 

 ネイマールにしろエジウソンにしろ首位争いをしているチームの世界レベルの選手が……ということで非難を受けたのであるならば白鵬と同じ話しなのかもしれない。ただエジウソンのリフティングなどはあきらかに嘲笑の意図がみてとれて非紳士的行為として非難されるのが正しい。一方で私の理解からすると立合いにおいて変化することは非紳士的ではないようにおもう。立合いで変わった方が簡単に勝てるではないか、という指摘をするひとがあるのかもしれないが中途半端に逃げても追いつかれて突き出されるのがオチであって、早く終らせられるのと簡単にできるのとは話しが違う。漫画のなかで播磨灘がとる言動の非紳士的さとは違うんだろうなとおもう。

 

興行的に如何なものか

横綱らしくない」というのが建前としての批判であるならば「千秋楽にあんなに簡単に終わってしまったら面白くないではないか」というのが本音としての批判であるだろうか。自分としてはこの論理で押し通してもらうほうがまだしっくり来る。

 

 出来レースをせよ、というのではななく興行として行うのであるならば、観客が納得できるような内容となるようにルールで導くのは悪いことではない。「横綱については立合いの変化は禁じ手に加える」ということになるだろうか。

 

 自分としてはルールはシンプルな方が良く「幕下は」とか「横綱は」というように細分化されるのは好ましくないように感じるので、相撲の持てる多様性を制限してしまうとしても一律に「立合いの変化は禁止」としてはとすらおもう。制限された中で技を磨くことになるのではないだろうか。

 

 こんな風に書くと「たかが興行ごとでそこまで言うのか」という反論が来るかもしれない。自分は興行というと、大阪城ホールで1996年9月1日に行われた「K-1 Revenge 1996」を思い出す。

 

 私は現地に見に行っていたのだがこの時最後の3試合が消化不良な内容だった。サム・グレコ vs. 武蔵が武蔵がリングサイドに落下してしまい無効試合、セミ・ファイナルのマイク・ベルナルド vs. ピーター・アーツがアーツのローキックがベルナルドの金的に入ってアーツの反則負け。ファイナルがスタン・ザ・マン vs. アンディ・フグで、これはフグのKO勝ちで最後の最後で盛り上がるのだが実はこの試合も危なかった。

 

 というのはこの時のリングのロープが異様に緩く、武蔵がリングサイドに落ちたのもグレコに押し込まれた時にロープが伸びきってしまってのことだった。そしてスタン・ザ・マンも途中で一度落ちそうになり、背中に変な負担がかかって負傷棄権というようなことも起きそうな場面があった。自分は大阪城ホールのわりと後ろの方で見ながら(これは暴動になるかも)と思っていた。スタン・ザ・マンが痛みながらも試合を続けたことと、フグが見事にKOしてみせたことでなんとか収まったのだが途中観客席からは「石井出てこい!」とプロモーターを名指しで罵る声が公然と出ていたのだ。

 


K-1...GP 1996-Revenge.Part 2.

 

 この場合ルールではなくリングの設定がおかしかったことがせっかくのマッチメイクを台無しにしたといえるのではないかと思っている。

 

  では大相撲はルールでもって興行内容をより観客が求めるようにすべきか……ということだが自分は上記のように書きながらもやはり立合いの変化までは禁じ手にしなくても良いのではないかという意見に戻ってくる。それも技のうちではないかという考えなのだ。所詮外野の意見であり、本当にルールを決めるのは大相撲協会のことなのだけれども。