馬込の地名 平張と谷中

 馬込八幡神社狛犬の台座には大きく「平張谷」と刻まれている。平張というと現在の行政上の地名には残っていないが馬込に住んでいると普通に耳に目にすることがある旧町名のひとつ。平張の集会所は裏にあるお稲荷様の社務所を兼ねていて近隣の神社のお祭りの際には山車や神輿が立ち寄り飲み物などが振る舞われる。

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 町名の由来などというものは一生懸命論じても必ずしも答えがでるものではない、詮無いものだがせずにはいられない──というようなことを確か司馬遼太郎さんが書かれていたと記憶しているが、私も馬込の地名についていくつか書いてみたい。

 

 さて「平張(ひらはり)」、という町名をみると(平墾り、から来ているんだろうな)といつも思う。ただ馬込の平張についてはかなり屈折した想いから名付けられているようにも思われ、ちょっと自信が揺らいできている。とはいえ一応現在も「平墾り」説を採っている。

 

 馬込は非常に地形の高低差が激しく複雑な地形で現在の平張町会の区域で「平ら」で「墾れる(耕作に適している)」と言えそうな場所はたいして広くない。そもそも馬込という土地全体は耕作にあまり適していなかったようなので少しでも耕作適地があれば「平張」と名付けてしまったのではないかという推測が私の「平墾り」説の薄弱な根拠になっている。

 

 旧町の区域をきちんと知らないのでどこかに資料がないだろうか、と探すと大田区の防災マップが町会ごとに作成されているのに行き当たった。「大田区ホームページ:わがまち防災マップ」から各町会ごとの消火栓や避難場所のマップがリンクされている。これに書き込みをさせていただくと。

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お借りした PDF のリンクはこちら → 大田区ホームページ:わがまち防災マップ 馬込平張町会(PDF:2,991KB)

 

 真ん中辺りの緑の部分が馬込第二小学校となっていてここが「谷」の一番奥まった場所になっている。馬込第二小学校の周りに描いたオレンジの先から東(右)がまあ平らといえそうな場所で谷底のほんの少しの場所しかない。馬込第二小の辺りには昔池があったような話しも聞いたことがあるが、池の周りは耕作適地だったのだろうか。

 

  大田区史を読んでいたらこの地図よりもうちょっと北、馬込東中学校辺りだという明治期の写真が載っているが現在の環七が通っている場所がまた谷になっていてなだらかな丘陵がつづき見渡す限り田畑、という風景になっている。傾斜地がほとんどだが場所をみつけて耕作していたとおもわれる。

 

 なお現在環七が通っていた辺りは川が流れていた。榊山潤氏の『馬込文士村』を読むと環七沿いに三本の細い川が流れていたことが書かれている。いずれも内川の支流ともいうべきこれらの小流たちは急峻なこの辺りの地形をつくるに主要な役割を負っていた。この川沿いの旧町名は谷中という。馬込だけでなく川の向こう側、現在は山王四丁目になる部分も含む。

 

  谷中は平張の東隣でありほぼほぼ平地である。つまりかつては平らな耕作地であり得たはずなのだが、こちらが平張とは名付けられなかったのはこの地図の東(右)と西(左)に挟まれた谷の地形から「谷中」という地名が先についてしまったからか、あるいは三本の細い水路が雨が降るとすぐ溢れて耕作が大変だったので「墾り」とつけるのはちょっと……という感じがあったのかは不明である。ちなみに現在の谷中町会の東側の境界になっている道は三本の小川のうちの一本が埋められたあとで、その外側は崖と読んで良い地形になっていてまさに「谷」というにふさわしい。平張側も谷になっていることは前述の通りである。

 

 なお最後に谷中町会の防災マップの PDF ファイル、名称の読みが「たになか」になっている。おそらくは間違いでいかに江戸の外とはいえ東京の地名だから台東区と同じく「やなか」のはずだと思っている。

 

馬込の地名シリーズ

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