四十九日は三ヶ月に渡ってはいけないのか

 昨年末に岳父が亡くなり葬儀を済ませた。

 

 我が椋家は神道で、たまたま過去十年神道の葬儀ばかり経験してきたのでこの度の曹洞宗の葬儀では教えていただくことばかりだった。
 
 1月1日が初七日だったのでこれはその通り菩提寺のご住職に来ていただいて執り行った。続いて二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)……と七日毎に行うのだが、四十九日をいつにするかというところで「四十九日まで三ヶ月に渡ってはいけない」という話が出てきた。
 
 ちょっと調べるとこれは「四十九(始終苦)が三月(身に付く)」という縁起の悪い語呂合わせから忌まれるということで、あまり真に受けないで良いような話にも思える。実際月の後半に亡くなられれば満中陰まで三ヶ月に渡ってしまう。このあたり葬儀社の担当の方に伺ったら分かり易く教えて下さった。
 
「三ヶ月に渡ってはいけない」が語呂合わせから来ていることはその通りなのだがもうひとつ理由があるという話で、「江戸時代は賃金が一般に日払いで、基本給の考え方が無かった。四十九日が済むまで休んでいると生活が大変なので、満中陰までがあまり長くならないようにこの習俗が使われたらしい」……との事。今は喪があけるまで仕事もしない、というような事も無い訳だが葬儀を出した方は葬儀に参列できなかった方が拝みに来られる事を想定して必ず誰かが家に居るように配慮するなど一定の制限が加わる。現にこの年末年始妻に実家には一日に1、2組は来訪があった。その制限をあまり長引かせないという意味では現在も有効なやり方ではないだろうか。
 
 神葬祭では四十九日の法要に対応するものとして五十日祭がある。十日祭、二十日祭……と十日ごとにお祭をするところも習俗としては同じようなものである。神道で葬儀を出すというような事は江戸期には限定的であったようであり、葬儀を出す方もその内容が意味するところについて過剰に自覚的だったろうと推測される。よって五十日祭までの期間を短縮するというような現実的な調整は入らなかったのではないだろうか。実際三ヶ月云々の話は神葬祭では聞いたことはない。
 
日本固有の葬儀は、仏教伝来以降、急速に仏式のものが普及した。さらに江戸時代になると、キリシタン対策のための寺請制度(てらうけせいど=人々は必ずどこかの寺に所属しなければならないという制度)により仏式の葬儀が強制された。だが江戸時代の中後期になると、国学の興隆によって国学者たちが日本古来の精神・文化に立ち返ろうと訴える中で、神葬祭の研究も行なわれるようになり、日本古来の信仰に基づいた葬儀を求める運動(神葬祭運動)がおこった。その結果、幕府は天明五年(1785年)吉田家から許可状のある神道者とその嗣子のみに神葬祭を行うことを許可した。

 神葬祭 - Wikipedia より引用

 

  ところで我々は郷里である山口県萩市須佐から東京に戻ってきたので二七日以降は参列できないのだが、ご住職が1月5日に別途四十九日にあたるお経をあげに来ていただいた。可能ならば家内だけでも四十九日の時だけ帰郷を考えているが、子供が風邪をひくだのなんだのあって来れないかもしれず気がかりだろうから先にやっておいてあげよう、という配慮をしていただいたのだ。納骨は恐らくお昼前後になるからたとえ来れなくてもその頃に手を合わせなさい、と仰っていただいた。