東日本大震災のあと一時期妻と子供達を実家に戻していた時期があった。
仕事をしている間はひとりで出歩いていたのだが、出かける前に馬込の総鎮守である八幡神社に立ち寄った時のことである。
狛犬が子供とじゃれているのに気がついた。
離れていた子供達のことを思い出してふと写真を撮ったのが下で出てくる写真である。
よく見ると馬込八幡神社の本殿前の狛犬は阿吽とも子供とじゃれておられる。興味が沸いてそれ以来お宮に参るたびに狛犬を見るようになった。
実は狛犬が子供を連れているように彫ってあるのは一般的なことだということも調べると分かってきた。「子取り玉取り」と言って子を連れている狛犬と玉に足を置いている狛犬とが対になっている。阿形が玉を持っているか、あるいは開いた口に玉をくわえているかで、中国から伝わった吉祥の型であるという。よく見ていると中華料理店の前におかれた大陸風の狛犬も子取り玉取りであったりするのにも気がつくようになった。
ところが馬込や入新井にある神社を見ていると、阿吽とも子供を連れている。私が住んでいるこの土地は実はとても子供を大事にする風を備えているのではないか、と思うに至った。以前に書いたことがあるが、馬込にある北野神社の秋祭りの子供がひく山車などは地元の方がかき氷やおにぎりを振舞ったり、アイスやお菓子を出したり盛大なのも同じこの土地柄に根っ子を持つのではないかと想像している。
ということで調べてきた狛犬の様子をここにまとめ、今後も更新していくこととする。
黄色のピンが阿吽とも子連れ。
紫色のピンが子取り玉取り。
青色のピンが子を連れておられない狛犬。
狛犬が居ないお社はピンを置いていない。
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馬込
これが最初に気がついた子供連れの狛犬。近くの平張谷からの奉納である旨彫られている。平張は馬込第二小学校のある辺りで「谷」とある通り環七通りに向かって谷の地形を成している。
慶応元乙年 根古谷 鈴木平吉 の銘があるが、鈴木平吉さんは当初願主かと考えていたが願主は背後に彫られているため石工かもしれないと考える。 願主のひとりであるらしい。根古谷(ねごや)は西馬込の湯殿神社のある辺りという。
北野神社
ここも阿吽とも子連れ。子どもは三体じゃれている。他で書いたことがあるが、ここの秋祭りの子供の山車は盛大で狛犬に相応しいお祭りになっている。
銘は「明治三年歳在庚午 喜久月吉辰」と読める。喜久月吉辰は石工の名前だろうか。
瑞穂幼稚園の中にある神明社。阿形の足元にあるのが花のように見えるが牡丹であると思われる。、玉を彫っていたのが壊れてしまったのかもしれず、見た限りでは不明。吽形は子を連れておられる。阿形の台座に「明治十五年四月」、吽形の台座に「東京芝伊皿子町 石工 和田左兵衛」の銘がある。
本殿に向かって右側阿形のみ子連れ。石工の名は見つけられず。
湯殿神社
子取り玉取り。向かって左の狛犬に「大正十年四月」、右に「当村野村錫吉」という恐らくは奉納者の名前と「池上大□ 内藤□□刻」という落字ありの銘がある。恐らく内藤某が石工か。
大森中央〜池上
馬込から臼田坂を降りた池上通り沿い。入新井村の一部を為し、馬込と隣り合わせ。
ここの狛犬に至っては阿吽とも2体づつ子供を連れている。1体づつ背中に載せているし、どれだけ子供好きなのか。明治二十五年建立、芝貮本榎壹町目 石工 塚本福次郎の銘。
太田神社
阿吽とも子連れの狛犬が居られる。「三田の石工堀部忠蔵」「松仙芝」の銘。当初「松仙芝益」の四文字かとおもっていたが、最後のひと文字は花押ではないかと思われる。鈴ヶ森の磐井神社の狛犬の同じ場所に「松仙芝」が刻まれており、太田神社より二十年前の奉献。
堤方神社
阿吽とも子連れの狛犬が居られる。明治四十年七月奉献、「池上の石工 松坂重吉」の銘。→ 2018年に外された。新しく奉献される狛犬はこれから確認
山王
子連れの 狛犬。明治三十五年五月奉献で「八幡石工 高橋磯右エ門」の銘。鵜ノ木八幡と同じ石工の名で、鵜ノ木八幡より十一年後の作となる。
子連れの狛犬。大正四年九月奉献で石工の名は見つけられない。奉納者は皆川姓が列記刻字されている。
子取り玉取りだが玉を持っておられる吽形も懐に子を連れておられる。石工の名はみつけられず。
根ヶ原神社
子取り玉取り。大正十三年十二月の奉献、石工は石常の銘がある。
大森も八景坂を登った先の狛犬は子連れではなくなる。
鹿嶋神社
本殿前には狛犬は居られない。脇にある小さな旧本殿の前に居られる狛犬は子を連れておられない。「天明五年乙巳九月 石工尤治郎」の銘。
その他の大森、蒲田
堀之内三輪神社
子連れでかつ吽形が玉も持っている。大正七年五月奉献。この辺りで栄えた海苔の養殖業者に崇拝されたお社らしい。
大森中三丁目にある八幡神社は子取り玉取り。
御園神社
西蒲田七丁目におわす。子取り玉取りで台座に銘はない。そばに建てられた幡をたてる支柱には昭和六十参年七月とあり、やはり石工の名はない。
子連れでない。昭和三十六年八月八日奉献。
稗田神社
子連れではない。昭和三十四年八月十五日奉献、石工は青山石勝、現在の株式会社石勝エクステリア(東急グループの造園工事会社)の仕事らしい。
北野神社
子取り玉取りかと思ったら玉を持っている狛犬の背中には子どもが乗っていて阿吽とも子連れ。石工は「六郷村 五代目竹内慶太郎 徒弟石工 川崎町新宿 彫刻人 鈴木巳之助」とあった。大正拾年四月吉日奉献。
大森の沢田交差点近くの浅間神社様、子取り玉取り。ニ千六百年とあるので神武天皇即位紀元二千六百年記念の年に奉献されたものらしい。西暦1940年、昭和十五年。
徳持神社
池上の徳持神社、子連れではない。昭和四十一年八月建立で、奉納者ご夫婦の名前が刻まれているが石工の銘はない。
三輪神社
大森町の商店街近くの三輪神社。恐らく昭和六十一年から六十三年にかけて神殿を造営した際に一緒に奉献されたものではないだろうか。子連れではない。銘もない。江戸期には第六天社と呼称されたお宮が明治に入って改称されたものだろう。
鵜ノ木八幡
明治二十四年奉納、銘は「八幡石工 高橋磯右エ門」で山王熊野神社と同じ石工の名で、熊野神社の十一年前の作ということになる。
阿吽とも子連れの狛犬。明治三十九年五月奉献で溝ノ口石工 内藤慶雲の銘。内藤慶雲はかなりブランド化されているらしい。
阿吽とも子連れ。石工は芝区三田臺町壹丁目 堀部忠蔵の銘。奉献の年の写真を取り忘れているが明治三十年九月。池上市之倉の太田神社と同じ作者で太田神社の四年前。松仙芝益の銘は確認できなかったがもう一度探しに行こう。
阿吽とも子連れ。目が赤と青に塗られているのは後世に手が加えられたのだろうか。あまり感心しないが……阿形が笑っておられるように見える。
銘に安政五戊午年十二月再建とあり、安政の大獄の始まった頃。石工の名は六郷 竹内六之助とある。
昭和五十四年九月に本殿再建時奉献された新しい狛犬で子連れではない。
品川
本殿の前と鳥居の前に狛犬が居られるが子連れではない。本殿前の狛犬は立派だが銘などは見つけられない。鳥居前の狛犬は麻布の市兵衛町講中からの奉納とあり、文化五戌辰十月のという奉納日、世話人の名と永坂町石工 和泉屋庄兵衛の銘がある。
本殿前に三対の狛犬がおられるが、中間にある一番古い狛犬が阿吽とも子連れ。幕末の嘉永二己酉年(1849年)十月の奉献、ペリーの浦賀来航の4年前。明治三十八年と平成十六年に修繕が入っている旨の銘がある。嘉永と明治の石工の名は見つけられなかったが、平成の石工は飯嶋吉六の銘があった。もしかしたら明治の石工は灯籠などにあるのかもしれない。
なお鳥居そばの小さい狛犬は昭和初期の奉献、本殿そばの狛犬は大正十五年の奉献となっている。一番古い狛犬が子連れ、ということになる。
子連れではない。慶応三丁卯年(1867年) 夏六月吉祥日の奉献とあり、石工の名を見つけられなかった。
目黒不動にほど近い氷川神社は阿吽とも子連れ。安政六巳未年九月奉献で下大嵜村 石工 忠太郎 彫工 熊次郎、との銘。
芝
御穂鹿嶋神社
阿吽とも子連れ。銘が削れて読めないのが残念。
赤坂
本殿に一番近い場所におわす狛犬は延宝三年(1675)で東京都内で二番目に古い奉献との情報がある。参道沿いにもう一対手前におわす狛犬は阿吽とも子連れ。
狛犬ではなく猿が居られる。新しいものの様だが面白い。
渋谷
子連れではない。「明治三十三年八月 石工中村勝五郎」の銘。
子連れではない。
写実的な狛犬は「昭和55 1」とサインのある新しいものだが、元は江戸前期延宝年間に作成されたものの損傷が激しかったため元のものをモデルに再作成したもので犬ではなく狼の姿だという。お宮のウェブサイトに再作成者の名が載っているのだが、他のどこで探してもその人物の名が出てこないので判然としない。サインは○に瑞か穂の字か。
新宿
花園神社
狛犬は子取り玉取りでおわす。酉の市が盛大な神社らしい立派さで石工は四亀こと村岸寅吉、石甚こと村松季吉、世話役が本間久造、彫刻が鈴木新太郎、と大掛かりに仕事をしたことが記録されている。
鬼王神社
本殿前と鳥居をくぐってすぐに狛犬がおられるが、本殿前が阿吽とも子連れで明治三十五年の奉納。
昭和十三年奉納の鳥居のそばの狛犬は子を連れておられない。
いずれも石工の名は見つけられず。 → 本殿前は井亀泉、酒井八右衛門の作。
大久保
皆中稲荷神社
川崎
大戸神社
ここの狛犬は阿吽とも砲弾を抱えておられる。砲弾に「日露戦捷紀念」ないし「日露戦勝紀念」と彫られていて、当村から出兵した方々の名前も台座に彫られている。向かって右の阿形の台座に「明治四十年十月 石工神池 松原延大」とあるように読めたが、地名は「神地」かもしれない。近くの上小田中に「中神地公園」がある。また調べると石工の名前は「松原延太郎」との記述が見られたのでそちらが正しいかもしれない。日露戦争終戦から2年後に奉納されたことになる。
京都
八坂神社
大阪
岡町 原田神社