『困ってるひと』読書録にかこつけた文体談議

 新宿駅の地下の東口改札を出た側にベルクというビア・カフェがある。

 私はまだ2回しか行ってはいないが、新宿方面に行くと(今日は寄れるかしら)と思うようになっている。昼食を軽く取りたいときにもいいし、夜一杯やって変えるのにもいい店。

 ベルクは母屋であるところのルミネに立ち退きを要求されている。しかし多くのファンが反対の署名をし、現在に至るまで立ち退きは行われていない。私などもルミネといっても劇場以外はベルクしかわざわざ行く場所はなかったりするので是非存続して欲しいと思っている。

 私がベルクの存在を知ったのはたぶん Twitter大野更紗さんが「ベルクでレバーパテを食べながら……」とポストされているのを見たからだと思う。


Twitter / @wsary: 人生のめあて:①ほしのさんか、なかまたさんか、としうえの……

 今、その大野さんの『困ってるひと』を購入して読んでいる。

言葉の選び方

『困ってるひと』をウェブマガジンの「ポプラビーチ」で読んでいる時から、その文章の読み易さに感じ入っていた。

 今も改めて感じ入っている。「おしり大虐事件」の章などそのサブタイトルからして、書かれている出来事の壮絶さに関わらず入り易いし残り易い。

 この「読み易いと感じる文章」に会うといつも(自分がこういう文章を書けるだろうか)と考える。

 大野さんのような文章は多分(自分には無理だ)と思う。技術的に書けないことはないのかもしれないが、自分がやると単に「読者におもねる」ためにやるようになり魂が入らないような気がしている。

 自分が書く時は『猫間川をさがせ』にせよ『息長川ノート』(もう1年近く次が出せていないが諦めずに書いている)にせよ「この文章は百年単位で残るだろうか」ということを自問しながら書いている。ここでの文章ですら、脱線しつつもどこかで「百年単位」を思いながら書いている※。

「この言葉は注釈無しで伝わるかしら」というようなことを考えると(駄目だ)と判断して外して別の言葉を探してしまうことがあったり。

 言葉を遊ばせるよりはどう読んでも意味が伝わるような表現を選んでいたり。

 読んでもらうにも退屈な文章になっているかもしれない、と思わなくもない。

 ただ、こんなテーマ選びで、こんな文体で書くことでも良いのかなと迷いながら書き出した『猫間川をさがせ』を成したことで(自分が書くものはこれでいいんだ)と考えるようになったし、幾人かの方に評価を頂いた時には正直に嬉しかった。

 誰もがこのような葛藤を経るのかどうか分からないが、夏目漱石が経た煩悶に比べれば自分の文章への迷いなど大したことない問題なのだろうと思う。夏目漱石の小説は私にとって読んでもストレスを感じない小説の頂点にある。

 煩悶を求めて得ることで良い文章が書けるならばこれくらい何ということも無いのかもしれず、いずれにせよ自分の書く文章も誰かにとって「読み易い」文章でありたいという気持ちは持ち続けたいと思う。

 一方でまた読んでいて心地良い文章に会うのは楽しく、特に随筆を好む私にとっては大野更紗さんの作品は同時に購入した関口良雄氏の『昔日の客』と並んで今年の嬉しい発見になっている。

困ってるひと

困ってるひと

Twitter はそういうことを一切考えていない。普段しゃべっている感覚で post している。受け狙いのネタに走ることも多々ある。