差別という我々の病
大阪市立大学に在籍中、合気道部以外に部落問題研究会に顔を出していた。在籍していた訳ではなくて、「部落問題論」という講義の学生側の世話役をやっていたので、準メンバーみたいなものだった。
なので被差別部落に限らず、社会学上でいう様々な差別問題について知るたびに足をとめてきたし、今まで考えたり議論してきた積み重ねは平均よりもちょっと厚くて、世の役に立てるかもしれないとおもう。
震災による福島第一原発の事故以来、福島県のひとへの差別をする人間がいる、という話を時々聞くようになってきた。
しかしある会話の時に様子が変貌した。出身地を聞いたときに間が走った。
そして明らかにおかしな間の後に奥さんがつぶやいた。
「私達いわきの人間は恐れてるんです。東京ではいわきの住所を書いたらホテルの宿泊も断れました。電車に乗ってたら福島の人間は放射能まき散らすから福島ってゼッケンつけてほしいよねっと隣の若者が会話してました。私達はここに来るまでいわきの人間だってのを隠してきました。」
絶句した。そんなことテレビでは言ってない。ツイッターでも誰も書いてない。
でも私は自信を持って答えました。
「札幌は絶対に大丈夫です。良い事か悪い事か平和ムードですし、元々札幌の人間は暖かい。いろんな方が集まって生まれ今でも各地から色々な人が集まってきているアメリカに近いような人を受け入れる街です。」
本当に心の底から自信を持って答えました。いえ自分に言い聞かせました。
何故ならこんな現状を見向きもせず自らの選挙活動しか頭にないリーダー(政治家)が多すぎるからです。
色々な苦労話を聞きました。
(札幌市へ避難された方300人への布施 : 札幌市の便利屋 源さん(青森&横浜&タイ))
ぼかしつつ、おとといついったーであった本当のはなし
「震災に負けずにがんばるぞ!!」と余震に揺られつつ原稿やってたけど
会場にこういう人がいるって思うとだんだん怖くなってきてしまった
そのあとTLへ流れてきた彼女^^;と友達><のやり取り
「福島の( ^ω^)さんスパコミ来るぽいけど放射能大丈夫なのかな^^;こわい^^;」
「( ^ω^)さん福島なんだ><やばくないのかな><こわいよね><」
「だよねー^^;ちょっとこわい^^;」
( ; ω ; )
そのきっかけは、新郎の母親が言った「放射能の影響」の言葉だったそうだ。女性は、これでは一緒にやっていくのは難しいと思い悩んだ。そして、結婚で新郎の家族が不幸になってほしくない…。こう考えて、女性自ら、新郎側に破談を申し入れた。そのとき、新郎は安堵の表情を見せ、新郎の両親も笑顔になったという。
もちろん、第3者であるカメラマンが話を聞き間違えたり、破談の理由はもっと別のところにあったりした可能性はある。これが本当のことだとは必ずしも言えないが、福島出身が理由で婚約が解消したケースなどは実際にあることなのか。
(福島出身を理由に結婚破談? 「放射能差別」起きているのか : J-CASTニュース)
「放射能がうつる」なんてことは勿論ないし、被曝国としてこのような無知を振りまく人間が存在することことは恥ずかしい事だ。そう考えている人もたくさんいると感じているし、私も強くそう思っている。
そのような考えの人は、正しい知識が世に共有されれば謂われない差別は収まっていくだろうと考えているとおもう。これもほぼ正しい。「ほぼ」。
最後の壁
最後の結婚における差別の事例を読む前から、私は猿回し師の村崎太郎氏がテレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組に出演されたのを見た時のことを思い出していた。
村崎氏はいわゆる被差別部落出身者であることをこの場でも明言された。とても力ある行動であると私も感じながら見ていた。
ところで、被差別部落、というものに今意味があるかというと、無い。そう思われている場所がある、というだけのことだ。
歴史をたどると、差別を受ける事になった集団は職業で区別されていた例が多い。その職業に共通性があるかというとどうも難しく、地域によって違っていたりする。屠殺業であったり、刑吏であったり、ごみ回収業であったり、特定の材料(皮革や柳など様々)を使った工芸製作業の事例を聞いたこともあるし、医師業という事例もある。
医師の例の場合、ハンセン氏病の看病などが遠因にあるような気がする。そこから「穢れ」への恐れのような感情が生まれ、遠ざけることになったことが想像できる。
さらには「穢れ」がひとではなく、家系でとらえられるようになる。民俗学上で論じられる「筋」という考えでとらえられる。
「筋」というものの根源には、よく分からないものへの恐れがある、ということで良いのだろうと考えている。よく分からない筋と自分の家は通婚できない、ということが常識のように語られて来たのだろうし、今も語られている。
部落差別の撤廃を論じるにあたって「寝た子を起こすべきでない」という言葉で象徴される論がある。「部落差別というものは現代においては実態はないし、多くの人が知らなくなってきているからあえて差別反対などを訴えたり、教育するべきではない」という考え方だ。
ところが実際は、結婚という場面においてこの「筋がどうか」という判断が出てくる。本人が知らなくとも、親が気にする。場合によっては普段やりとりも無い親戚が出てきて親に「筋の良し悪し」を吹き込むこととなる。恐るべき事に本人たちは自分たちを守るためにやらなければならない事だと信じている。
先述の村崎氏も、世間からの差別よりも身内からの反発のようなものにダメージを受けたような印象を、そのお話しぶりから感じた記憶がある。
どんなに知識を広めていって「よく分からないもの」をなくしていったとしても、結婚を認めるかどうかという場面になると「親や親戚のことをおもって」というような理性を超越した声が出てくるという日本の文化のなかに我々は生きている。
これは我々共通の病なのだろうと思っている。自分の身を振り返ってみれば、祖父母と母は既に世に無く、居ても俺は反論するだろうな、という気がしている。健在の父についても同様。
ただ、家内の両親からそのようなことを言われた時に本当に説き伏せられるか、ということについては一抹の不安がある。例えば、10年20年後に子供たちが結婚しようと思う、と言ってきたような時に。そういう病の中に自分もいるのだろうとおもう。
被曝についても、既に長崎や広島においては差別が起きてきたし、ここで新たに福島に関する差別が生まれるのを指を咥えてみていることは出来ない。
もちろん、実際に現在も被曝の危険に曝されている子供たちを救わないといけない。政府がリスクを小さめに評価して避難区域を設定しているが、妊婦や幼児、児童がいる家庭を優先して広めの区域で避難させるような策は是非とらないといけない。
そうした策も含めて、起きていることについての情報を地道に繰り返し共有していくことが今出来ることだとおもっている。本当はそういったことが一番効果的にできるはずの政府、あるいはマスメディアが信頼できないのが残念ではあるが、我々はネットのような手段は手にしているのだし。