湯田温泉 松田屋ホテルにみるホスピタリティとその維持の難しさ

 だいぶ後になって書いているのだが、夏の休暇の際に父親の古希の祝いということで(実際はもうちょっと前にお祝いするものだそうなのだが)一泊で湯田温泉に泊まりに行ってきた。父親と私の一家と妹の一家、計8名。

 宿泊先は妹が自分とこの移動の新幹線の便とペアで JTB にて予約した。これが、松田屋ホテルだった。

 さて、私は司馬遼太郎さんの書いたものが好きで、特に『街道をゆく』が好きだ。もっというと、『街道をゆく』の最初の刊、近江のあとに収められている『長州路』には、大袈裟にいうと救いを与えられたと思っている。

 ここで司馬さんは長州人論というものを書かれているのだが、それを読んで私は長年奈良や大阪で過ごしてきてある種の違和感、というか馴染めない感を感じていたことの理由に辿り着いた気がした。要は「自分は関西で生まれ育ったけど、根が長州人だからどこか馴染めないとこがあるんだ」という風に納得したのだ。

 この『長州路』で司馬さんたちは湯田温泉に泊まっているのだが、この際の宿泊先が松田屋ホテルだったらしいことに、恥ずかしながら宿泊して初めて気がついた。

 館内に「宿の湯に噛みつくようにして入った」下りが温泉の入り口のところに掲げてあったり、庭に出ると「山口ニテ雨、アカマツ」と手帳に書かれている、という箇所が庭に掲げてあったりする。

 親父殿と妹の御蔭で、巡礼に来れた、というところだろうか。

 我々が宿を取ったのは新館の方の部屋だったが、庭に出ると本館の方の部屋が面していて、部屋から庭に出られるようになっている。こんな部屋に一週間くらい泊まれたらどんなに快適か、と思いながら見ていた。

 部屋だけでなく、宿のスタッフの方も日本旅館の粋という風であり、気持ちよく過ごさせて頂いた。上記『長州路』の中で司馬さんの旅に同行した画家の風間完さんが「オカシイところがありませんね」と評した文化が今も続いているのだろうと思う。

 ただ、難しいもんだな、と感じたのが夕食の宴の時のこと。

 今回予約の労をとってくれた妹なのだが、その機会を捕らえて JTB に「貝が苦手」「山芋は駄目」という自分の好みを伝えていたのだが、それがさっぱり宿に引き継がれていないことが判明した。なんとも損な気分になったことであろうかと思う。

 妹の話によると、受け付けた JTB の担当者がスカタンだった可能性が高いらしい。一概に松田屋ホテルを責める訳にもいかないように思えた。ただ、ホテルのウェブサイトから直接予約できるとはいえ、旅行代理店さんの力も必要であろうから、そういった周辺のひとたちも含めて宿の質というものを維持しようとしなければならないのかもしれず、難しいものだと思いながら食事を頂いていた。

 とはいいながら、父親に宿からも贈り物を用意して下さったり、子供たちに団扇をプレゼントしてくれたり、色々気を使って頂いた。お高いけれどそれだけのことはあり、また泊まりに来てみたいと思ったことに変りはなかった。

 翌日チェックアウト前には、近くのタクシー会社でマイクロバスを出してもらい、夕立に襲われるまで山口市内を見て回った。父は山口高校出身だし、私たち兄妹は母の実家(道場門前商店街、西門前の薬局だった。今は無い)に子供の頃里帰りしていたし、家内も須佐のひとだから山口観光って変な感じだったが、最近素通りばかりだったのが久しぶりにザビエル記念聖堂や瑠璃光寺を見ることができて懐かしかった。