ストロング系酎ハイの成分への疑義

 勤務先で年一回の人間ドックを受けられているのだが、昨夏の検査で肝臓の値が基準値を超えたということがあった。γ-GTP については十年以上高めの状況が続いているのだが、この度は GPT(ALT) の値も突然基準値を超えた。GOT(AST) も基準値内だが上がっている。いずれも肝臓に関する検査値ということになる。

 

 γ-GTP は肝臓をはじめとする臓器の細胞内に存在する酵素で、これが血液に出ているということは何らかの問題が臓器で起きているのではないかということになる。

 

γ-GTPは本来ならば細胞内に存在しているのだが、何らかの理由で細胞が破壊されたりしたことによって、血中へと遊離したことによって、この値は上昇する。また、ヒトなどでは特に疾患が無くともγ-GTPは血中から検出されるものの、疾患があると、その値は異常に上昇する場合がある。特に、胆道系疾患の胆嚢炎や胆道炎、さらに胆道閉塞などによって上昇する。また、肝臓疾患の肝ガンやアルコール性肝障害などによっても値が上昇する。このため、肝・胆道系疾患のスクリーニングのための検査項目の1つとして利用され得る。

γ-グルタミルトランスフェラーゼ - Wikipedia

 

 この値が高いため、人間ドックでの問診では毎度酒量を確認される。そのため酒を飲む日を減らしてきていて、四十歳を過ぎてからは週四日までとしてかつ二日続けて飲まない日を作るようにしていた。五十歳を迎えて以降は更に減らして週二、三日としている。それにも関わらず上昇、かつ ALT も異常値を示したので何が悪いのかにわかには分からなかった。γ-GTP が胆道についての異常を指し示すことが多いのに対し ALT(アラニンアミノ基転移酵素) の検査値の上昇は肝臓そのものに限定した病変の可能性を示すらしい。細胞内にあるはずの酵素が血液に多く漏出しているのは何か問題があるのでは無いか、という見方は γ-GTP と同じらしい。

 

逸脱酵素としての性質から、血清中のALT濃度は肝障害の程度の指標として利用される。肝細胞が破壊し尽くされるとむしろ流出量は低下する。肝臓の逸脱酵素としてALTとともに知られるAST(GOT)よりも特異性が高い(肝臓以外の障害では上がりにくい)が、ASTとの比率も臨床的に意義がある。

アラニンアミノ基転移酵素 - Wikipedia

 

 昨年の人間ドックの診断結果には半年程度で再検査を、という経過観察扱いとする旨が記載された。勤務先が費用負担して血液検査が出来ると分かったので先日2月初旬に検査を受けて来たのだが、漫然と再検査はしないとのお達しだったのであるものをやめて検査に臨むことにした。即ち

 

ストロングゼロ」と「99.99」を飲むのをやめる

 

 ことにした。いわゆるストロング系酎ハイ。そして検査結果が以下となる。

 

項目名

基準値

2016年7月

2017年7月

2018年8月

2019年7月

2020年2月

GOT(AST)

39以下

16

16

16

27

16

GPT(ALT)

39以下

22

19

20

45

24

γ-GTP

69以下

115

83

116

209

126

 

 今月の検査で ALT は基準値の範囲内に戻った。AST も下がった。γ-GTP は基準値を超えているがやはり下がっている。

 

 Twitter の自分のポスト履歴を見返してみると2017年中は「飲んだことがない」と明言している。そして2018年4月には「飲んだ」とポストしており、缶ビールレギュラー缶のあとの二本目に飲むという習慣がこの辺りから1年半ほどは続いたことになる。2018年8月の検査値で γ-GTP の検査値が少し上がっているのは飲み始めて3,4ヶ月で影響が出始めていたのかもしれないと思える。そして2019年11月あたりで飲むのをやめたので3ヶ月で改善結果が現れたものと推測したくなる。

 

 ストロング系酎ハイを原因として仮定した原因はいくつかあるのだが、そのひとつが精神科医の松本俊彦さんの Facebook での下記投稿だった。

 

結局あれは「お酒」というよりも、単に人工甘味料を加えたエチルアルコール=薬物なのです。そして、ジュースのような飲みやすさのせいで、ふだんお酒を飲まない人や、「自分は飲めない」と思い込んでいる人でもグイグイいけます。そうした人たちが、ビールの倍近い濃度のアルコールをビール並みかそれ以上の早いペースで摂取すればどうなるのか。ただでさえ人類最古にして最悪の薬物といわれているアルコールですが、その害を最大限に引き出す危険な摂取法です。

松本 俊彦 - ストロングZEROは「危険ドラッグ」として規制した方がよいのではないか。半ば本気でそう思うことがよくあ... | Facebook より

 

 上記引用の太字は私が附したもの。なるほど、と思うのだが私の身体に起こったことを鑑みると「高い濃度のアルコールを早いペースで摂取する」ことだけが検査数値に現れるような事象を起こしたのかについて少し疑問を持った。日本酒やワインなら、酎ハイとの飲む速さは縮まり、そしてアルコール度数は酎ハイに比べて高い。ストロング系酎ハイを辞めてからの三ヶ月ほど、荏原町の伊豆屋酒店で日本酒を買って飲んでいるので酒量としては著しく落としていないという印象なのだが、この検査結果が出ている。

 

人工甘味料を加えたエチルアルコール=薬物」自体が、醸造の結果得られるエチルアルコールとは異なるような、人体で処理するのに更に負荷がかかる特性を持っているなんていうことはないのだろうか。サントリーやサッポロをはじめとする大手酒造メーカー各位の製品にケチをつけるようで心苦しいのだが、私のような例が他にも無いのかきちんと調べてみてほしいと思うに至った。血液検査で同じようなことがあれば是非参考にしていただき、数値を共有いただければ幸い。

 

 

 

ある日の夢

 車を買う予定があり駐車場を探している。その日はかなり大きな、ショッピングセンターの駐車場みたいなところを見にきている。比較的上の方の階にいて、外が見える。

 

 突然、遠くで白く閃光があった。具体的な衝撃は感じていないが「爆弾が落ちた」と言う事実が頭の中にあって、自分が焼き出されたということを認識した。瓦礫の光景を見た気がする。焼き出されて、どこかに電車で移動することになった。今から考えるとJRのどの在来線でも、乗り馴れた近鉄電車でも、新幹線でもない。子供の頃に帰郷のたびに乗っていた、山口線山陰本線の古い車両みたいだったかもしれないし、もっと古かったかもしれない。ドラマの中で見た、戦後直後のような。

 

 電車はごとんごとん揺れている。ごとんごとん。ごとんごとん。がたがたがたがた! あれ? 電車にしては揺れが強過ぎないか?

 


 

 目が覚めた。大阪市城東区森之宮の、15階建ての公団住宅の11階、北端から二番目の部屋。畳に薄い布団を敷いて寝ていた。最初に目に入ったものが何であるのかを理解するのに15秒ほど要したと思う。それは、本棚が床と梁との間で凄まじい勢いで上下にバウンドしている風景だった。あんな光景はあの時にしか見たことがない。後で思ったことだが、この公団住宅を巨人が両腕で掴んで、もの凄い勢いで上下に揺すぶっているという感じだった。

 

 これは経験したことがない地震だ、と気がついたのがその15秒後だが、全く動くことができなかった。揺れがおさまってからふと横を見ると、車輪のついたテレビ台に乗せていたブラウン管テレビがこちらに少し寄ってきていて少しぞっとした。本棚については特に突っ張り棒などの耐震補強は施していなかったが、梁から数cmしかあいていない高さの本棚を買っていて、もし地震があっても梁に引っかかるのですぐに倒れてくることはないだろうと思っていた。実際に倒れてはこなかったが、もう少し長く揺れたら震動しながら前に移動してきて私の方に倒れてきたのかもしれなかった。

 

 テレビの電源を入れるとちゃんと映った。当時私は淀川を地下鉄御堂筋線で渡って通勤していたが、どうやら橋のどこかに破損の可能性があるとの情報があり、出勤は早々に諦めた。仕事場には電話を入れたが、自部署に出勤出来ていた人はいなかったような記憶がある。マシンインフラ周りの部署には、なんとか出勤している人もいるようだった。

 

 やがて高速道路が横倒しになっている映像がテレビ報道で映され、「長田」「深江」といった地名が出てきたので私はてっきりすぐそばを通っている阪神高速東大阪線が横倒しになったのだと勘違いした。私が生涯で経験したことがないと思った揺れはまだましな方で、淡路島が震源であり倒れたのは阪神高速神戸線であって神戸、特に西の方の被害はあんなものではなかったことが分かったのはあとのことだった。

 

 当日は公団住宅の前までは出たが、それ以上は出かけなかったと記憶している。コンビニエンスストアにも行かずに家にあるもので凌いだ。あとはひたすらラジオとテレビで流れてくる情報をみていた。奈良学園前の実家には連絡がつき、両親も妹も特に被害を受けていなかった。

 

 結局御堂筋線は動き出し、翌日には出勤した。当時のリーダーは「こんな時に仕事してもしゃあない。梅田に出て献血しようか」と言って、皆で献血しに行ったことを覚えている。

 


 

 これが 1995年1月17日、連休明けの火曜日の、私の記憶である。毎年阪神淡路大震災の日が来ると思い出すが、ちゃんと書いたことがないことに気がついて文字にした。

 

大田区でのとんど焼き

 馬込にやってきたのは2005年だが、それまで大阪にいた時には正月のお飾りは千里中央 から中央環状を橋で渡ってちょっとのところにある上新田天神社に持っていっていた。上新田天神社のとんど焼きはとても壮麗な祭事で実際にお焚き上げの時にも楽しみにみに行っていた。

 

 2005年に大田区に移ってきて、翌2006年より東京での正月となった訳だが身近にとんど焼きが見つけられず苦労した。最初の数年は正月は実家のある山口県に帰っていてお飾りをしていなかったり、やむを得ず普通のごみのように廃棄してしまっていたかもしれない。六郷の、多摩川河川敷でやっているのはこの時から知っていたが、今に至るまで一度も行ったことがない。大田区も広くて少し遠いのと、子供が小さい時には思うように家族で動けないということもあった。

 

 2010年の正月明けにお飾りを持ってどこかにお納めしようと私ひとりで出かけたことがあった。最初どこを目指していたのか今となっては思い出せないのだが、東急池上線御嶽駅のそばに鎮座する御嶽神社でお焚き上げをされていることを偶然通りがかって知った。以降何年かは、御嶽神社にお詣りしてお飾りを納めるようになった。お詣りのあとは駅前の商店会を歩いていくのが常で、「リヨン麦の華」というベーカリーに寄ったり、「安信屋」という八百屋を覗いたり、ダイエー(今はイオンスタイル)に入ったり。

 

 御嶽神社がとんど焼きをやっておらず、急遽新丸子の日枝神社にお飾りを納めさせてもらったのが2016年。お焚き上げをされる寺社を探して車ですぐに行ける場所を探したのだった。昨年2019年までの四年間は丸子山王にお納めしていた。昨年は新丸子駅から夜歩いて行って寒かったのを思い出す。

 

 実は徳持でもとんど焼きがあるみたいだというのは以前から気がついていた。過去の Twitter のポストログを見返してみたら2012年に行きそびれた、と言っているので、それきり忘れてしまっていたらしい。

 

 かくして今年、2020年に徳持神社に行ってきた。なおネットで検索してもとんど焼きの日時について正確な情報が分からなかったので正月のうちに一度初詣に自転車で行ってきて確かめてきていた。今年は1月12日の日曜日、11時〜13時、とあった。

 

 1月12日は天気が良かったので自転車で出かけ、11時過ぎに徳持神社に着いた。まだとんど焼きは始まっておらず、拝殿への列に並んでお詣りする。12時からお焚き上げが始まった。

 

https://www.instagram.com/p/B7NJ27cgYqd/

 

 街中でどうやってお焚き上げするんだろうと思っていたのだがそうか、小屋を建ててその中で行うのか。ちなみにお飾りを火に投じているのは徳持神社の氏子の方々らしかったが、消防署からも人が詰めていて万が一のための消化の準備もされていた。

 

徳持神社 お焚き上げの準備

 

 11時過ぎの時点でお詣りの列とは別の列が出来て歩道に伸びていたがこれは境内でお汁粉と焼き芋を作って配られるのに並んでいた。これが12時を過ぎると神社と同じ池上通り沿いの、区画の角にある彩華と言うラーメン屋の前を過ぎて曲がり、毘沙門天様の境内の前までになった。並ぶ時間が長くなりそうだったので、こちらには並ばずに帰った。来年からはこちらにお世話になるかと。

 

徳持神社 お汁粉と焼き芋に並ぶ列

 

 

沖縄都市モノレール線「ゆいレール」から忘れ物を送ってもらった

 子供が沖縄に旅行に行ったことがあるのだが、帰ってくるなり帰りの那覇空港への移動中、モノレールの車内でお土産に買ったものの一部を忘れてきてしまった、という。移動中に自分でゆいレール那覇空港駅に電話し、忘れ物が届けられていることを確認していたのだが、翌日改めて那覇空港駅に電話して送っていただけないかご相談しようとすると今度は「届けられていない」と話しが変わってしまったという。

 

 こういった、問い合わせのやりとりが噛み合わないことで忘れ主が諦めてしまい結局取り戻せないような例も世の中にはあるのかもしれない。しかし、彼には幾多の忘れ物を取り戻してきた経験を持つ父親がいる。熟練の技を見せる時が来た。

 

 子供に落とした状況を再確認する。勤務の合間なので LINE でのやり取りである。

 

  • どこで乗ってどこで降りたか

  県庁前駅で乗車→沖縄空港駅で下車

  ※本来は何両目の何番目のドア辺りかまで伝えるのがベストだが今回は省略

  • 何時頃か

  14時から15時頃

  • 落し物はどのような見た目か 

  白いビニール袋(レジ袋の類ではなく、しっかりした感じ)に購入したトートバッグが入っている/ピンク色っぽいビニール袋に購入したちんすこうの箱が入っている

  • 問い合わせた際の担当者名*1

  控えていない 

 

 並行してゆいレールのウェブサイトを確認する。「ゆいレール 遺失物」で検索。問い合わせ先の情報を参照する。遺失物は沖縄空港駅、てだこ浦西駅、県庁前駅のいずれかに届けられる。ページの下方に問い合わせフォームがあることを確認。電話での問い合わせは子供がやっているので、まずメールで正確な情報を伝えることとする。こんな感じの文章を送った。ポイントは当たり前のようだけど、日時と忘れた場所、見た目を具体的に伝えること。保管していただいた駅の方の視点で探してもらえるように伝えること。

 

◯月△日旅行で沖縄を訪れている際に利用させていただきました。
14時~15時頃県庁前駅から那覇空港駅まで乗っています。
その際に忘れ物をしてしまいました。
昨日那覇空港駅に問合せた時点では「届けられている」との回答だったのですが、本日同じく那覇空港駅に再度電話したところ「届けられていない」と回答が変わってしまいました。
改めてご確認いただけないか、ご相談させていただきます。
忘れたものは下記二点になります。

1. 白いビニール袋で内容はトートバッグ
2. ピンク色の袋で内容はちんすこう

 

 問い合わせ時に入力したメールアドレスには入力内容確認のメールが送られてこない、送りっぱなしのメールフォームらしい。問い合わせフォームとしては、あまりよろしくない。メールアドレスを入力間違えしていないだろうな……と思いつつ数時間待つ。翌日まで対応を繰り越しても良いのだが、なんとなく鉄道会社としての対応の青さが見えてきたので数時間後に沖縄空港駅に電話をし、メールフォームで送ったのと同じ内容を電話で伝えた。

 

 すると「今朝お電話いただいたのも認識がございます。実はトートバッグの忘れ物、と確認されたので届いていないと回答してしまいました。白いビニール袋ならば届けられておりまして、てだこ浦西駅で保管しています」との回答を得た。なるほど、今回は視点の違いからくる勘違いだった。トートバッグの方だが、実は誰に贈るかが明確に決まっていたものだった。だから子供は無意識に「トートバッグの忘れ物」と伝えてしまい、駅員さんは「トートバッグそのものの忘れ物」と聴き取ってしまったのだろう。

 

 続けててだこ浦西駅に電話し、やはり同じ内容を伝えて保管されている旨の回答を得た。ただ、間違いなく落とし主かの確認が必要とのごもっともなお話があり、担当の方のお名前を伺い子供に LINE でご担当名も含めた連絡先と何を話せば良いかを書いて送った。本人から再度電話し、無事確認がが取れ、着払いで送っていただけることとなったと横で聞いていた妻から報告があった。

 

 これで一件落着のはずだったが、翌日になってメール問い合わせの方に回答が返ってきた。返ってきたのは良いのだが「ご質問の遺失物は届けられておりません」と返ってきた。やれやれ。

 

 私は昨日の電話での確認状況を返信に書いた。そして電話での問い合わせの内容が食い違ったのは理由があったことと分かったが、間違いがないようにとメールで問い合わせたのに何故また回答が食い違ったのでしょうか、と書いて送った。嫌な客だ。

 

 今度は数時間後に返信があり、沖縄空港駅と県庁前駅とだけ確認を取っていたため正確な状況がご回答できていなかった、との説明があった。この返信の時点で忘れ物は着払いの宅急便で届いており、送り状と受け取った旨を知らせる返信票が同封されていた。送り状には遺失物番号が記載されているので一元管理する考え自体は沖縄都市モノレールは持たれているのだろうが、管理場所を三箇所設定しているのに各場所に届けられた遺失物情報には簡単にアクセスできないようになってらしく思われる。関東の私鉄だと東急電鉄は各線ごとに遺失物の集約駅が定められているのだが、その代わり検索システムがあり、集約駅以外でも参照可能なようだ。私は最寄りの大井町線荏原町駅で手袋だったかを探してもらった時、その場で検索して下さったのを見た記憶がある。そこまで難しいことをしなくても、ゆいレールの駅数であれば Google Driveスプレッドシートで共有するだけでも良いのではないだろうか。

 

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 今回自分が沖縄に行けたわけではないので「photock」というサービスでゆいレールの無料画像をダウンロードさせていただくなど。いつか沖縄にも行きたい。

 

「落とし物を取りに行ってきた」シリーズ







 

mukunokiyasuo.hatenablog.com

*1:相手の名前まで確認する、というのは私の仕事上の鉄則のひとつでもある。会社間での問い合わせでも、名前を確認していないまま「先ほどこのように伝えたはず」と話を進めようとされる方は世に多い。実際は他部署どころか他の会社と話しておられたのに勘違いしているような例すらある。問い合わせをする方も受ける方も相手の方の名を押さえておくだけで話の食い違いを防げるし、相手の無責任な言動を抑制できる場合もある。

渡邉信之師範について私が知らなかったこと

 1980年代に「Do!スポーツ」という番組がテレビ東京系列で放送されていた。私が奈良市立二名中学校、奈良学園高校、大阪市立大学に在学していた十代だった頃の番組で、「なんで Play sports やないねん」 などとツッこんでいたことを思い出す。

 

ja.wikipedia.org

 

 マイナースポーツを取り上げる番組、というイメージがあった記憶がある。 上記 Wikipedia の記事は2019年12月時点で出典が示されていないようだが、ある程度正しいと仮定して読むとモータースポーツ、アウトドアスポーツの回が圧倒的に多いようだが時々武道・格闘技の回がある。合気道は二回、取り上げられている。

 

 二回目が私が大阪市立大学に入学し、合気道部に入部した 1987 年の放送で「極技空気投げ合気の世界」というタイトルである。私はその放送をVHSテープに録画したものを誰かに見せてもらっているはずである。動画検索を試みたが残念ながら見つけられなかったが、微かな記憶では渡邉信之師範が演武をされていたのを覚えている。それは座法で一教の抑えをされる映像を見た記憶なのだが(えっ)と思ったのを覚えている。文字にしてしまうと「渡邉師範は受けに触っていないのに受けは一教で抑えられた」という映像を見たのだ。

 

 Youtube で、公式のものではないが、その雰囲気が分かる動画あった。一教(と思われる)場面の静止画像と合わせて掲示する。時期が書かれていないが、背後に飾ってある写真が植芝吉祥丸前道主のものであるとしたら1999年頃の全国合気道演武大会だろうか。

 


【合気会】渡邉信之師範【八段】

 

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 当時の私の師範は阿部醒石先生だが、大学生時代はあまり稽古をつけていただく機会がなかった。ただ一回生の時に創部二十周年記念式典があり、その際に阿部先生の説明演武を見ている*1。阿部先生も時に触れる前に制したり投げたりを演武でされることがあった。つまり私はそういう技の現れ方もあり得ると考えるような主観の持ち主なのだが、その私ですら渡邉師範の演武は(また少し違うようだ)と感じていた。今改めて上記の演武を見ると「ああ、これは導かれるな、分かるな」と思う技と「これは受け(受け身ではなく)を取り過ぎではないかな、自分だと違う受けになるのではないかな」と思う技の両方があるように感じる。

 


Seiseki Abe sensei

 

 渡邉師範は今年、2019年8月20日に逝去された。 それを受けて大田区合気道会でも渡邉師範の指導を参考にした稽古をすることがあった。渡邉師範が整骨院を経営され、人体の仕組みにも造詣が深くそれが指導にも現れている……というようなことも知ることが出来た。

 

 整骨院と柔道の道場が一緒にあるような例は時々見かける。柔道創始者嘉納治五郎先生は最初柳生心眼流、次に天神真楊流に入門されているが、昔読んだ子供向けの嘉納先生の伝記では「骨接ぎの看板を掲げた家の門をいきなり叩いて柔術を教えてもらえぬか尋ね、入門を認めてもらった」というような書き方がされていた記憶がある。

 

 合気道の師範でも柔道整復師の資格を取られている方や、それ以外の整体技術を習得されている方も結構おられるのかもしれないが、意外と耳にする機会が少ない。子母澤寛さんの随筆で「砂泊さんという合気道の名手に肩が張るのを見てもらっている」という記述をみつけて軽く驚いたのは少ない事例のひとつだったりする。

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 渡邉師範は磯谷いそがい公良氏が戦後間もなく創始した磯谷療法をまず学ばれたらしい。股関節の調整を重視するかも手法とのこと。この辺りの身体の仕組みと技との関係という理解についての詳細は渡邉師範のお弟子さんには引き継がれているのかもしれないが、合気道関係でそういった側面について記載している書籍や記事を今のところ見つけられていない。磯谷療法に携わっている方がネット上で公開されている記事がいくつかあって辛うじて概要がわかる程度だった。そのため渡邉師範について私のように「触らない技を演武でされる先生」とだけ思っているような不届き者は実は結構いるのではないだろうか。

 

 渡邉師範がどの様に学ばれ、その結果を稽古に反映されていて、その結果が演武にどのように現れるのかということはこれから様々な稽古の現場でなされるのであり、今回私も大田区合気道会の稽古でその一端に触れたのかもしれない。

 


2011年3月26日 渡邉信之師範 本部道場最終稽古 (抜粋) Mar 26, 2011 Nobuyuki Watanabe sensei's Final Class@Hombu Dojo

 

*1:私が卒業した後に阿部先生が道場に来られる回数が増え、ご指導いただく機会が増えることになる

荏原町会館の隣の店の変遷

 間も無くクリスマスがやってくる。昨年のクリスマス・イブの時のことだが妻は洋菓子店で働いていて一番の掻き入れどきとなる。普段は弁当を作ってもらうところ手間を省き、この日のお昼は各自でなんとかすることとなった。私は荏原町商店街にあるサンドウィッチ屋さんで買っていった。「ALL DAY BRANCH TO GO」というお店で通勤時間帯から開けておられて便利なのだ。開店が早い代わりに売り切れ次第今日は閉店とされている。

 

 

 この店は先日書いた庚申公園と同じ荏原町商店街の並びにある。庚申公園や鳥唐揚げの「丸吉」、「GOJYA」というバー、「Lotta Lantern」というベーグル屋さんのあるところから東急荏原町駅に向かう途中。向かって右隣は商店街事務所と「cherry」という美容室(煉瓦の建物)。左隣は「桂庵」というお蕎麦屋さんがある。

 

「ALL DAY BRANCH TO GO」に初めて立ち寄ったのが2017年7月3日、夜勤明けにお昼にと買ったのだった。この時に店頭に開店一周年と書いてあって、もう1年ですか、初めて来ました、とお店の方と話した記憶があるのでオープンされたのが2016年7月だったはず。

retty.me

 

 その前はどうだったかというと、現在荏原町駅前にでっかく建っている駅前ビル店舗エリア一階の角に入居されている「さいとう化粧品店」が仮店舗を開いてらっしゃった。「さいとう化粧品店」は元々駅前の、現在駅前ビルの上層部マンションの入り口になっている辺りの、店として一番良い場所に店を構えていらっしゃった。しかし2014年4月から2016年3月までの二年間をかけて駅前にあった公設市場的なエリアを再開発して駅前ビルを建てる際に一度立ち退いて仮店舗に移られていた。この再開発は三菱地所レジデンスが受注して行われたもので*1、当時私も再開発前の情報や雰囲気を書き残そうとしている。

 

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

「さいとう化粧品店」は2016年4月に現在の駅前ビルが出来てすぐに入居されたように記憶しているので「ALL DAY BRANCH TO GO」がその年の7月にあまり間をあけずに入居されたということだったかと思う。

 

 では「さいとう化粧品店」の前はどうだったかというと靴店が入っていた。そこまでは私の短い観測範囲でも残っている。「三美堂靴店」という店だった。この店が閉めることを決断されたのが駅前再開発が決まったあたりの時期だった。以下の写真が2013年7月7日に撮ったもの。当年中には閉められたような気がするが定かでない。翌年4月に駅前ビルの建設が始まったのでそれまでには閉められていたのは間違いなかろうと思う。

 

荏原町商店街 三美堂靴店

 

 改めて写真を見比べてみると入居しているビルは同じで建て替えられているわけではない。とすると建物は「三美堂靴店」さんの建てられたもので、「さいとう化粧品店」以降は「三美堂靴店」さんに店舗スペースを借りられているのかもしれない。

 

 ちなみに駅前ビルの道向かいに「麺屋ゆうすけ」というラーメン店があるが、ここも店名を覚えていないが靴屋があった記憶がある。同じ通りを東急大井町線沿いに荏原町方面に歩くと大東京信用組合の支店の百円ショップの Can Do の間に「カメヤ」という靴店が今もある。歩いていける距離内に靴店が三店舗あったということを知ると、荏原町が今よりも更に栄えていた商店街だったということを感じることができる。

 

大森山王ジャーマン通り 古書店の変遷

 大森の「あんず文庫」という古書店を紹介する記事が Facebook で流れてきた。Bookshop Lover の和氣さんのポストで、近くまで来られたんだな、と思い「あんず文庫」の場所を確認してみて(あ、天誠書林のあったとこか)と納得した。

 

www.facebook.com

 

  上記ポストへのコメントにも書いた、古書店の変遷を一部訂正の上もう少し詳しく、書いておこうと思う。

 

「天誠書林」がいつからあったのかはよく分からない*1。未読だが岡崎武志さんの『気まぐれ古書店紀行』に天誠書林が登場することから1990年代にはあったと思われる。大森駅から環七通りに抜けるジャーマン通り沿いの、環七寄りに行ったところ。隣が内科・小児科のじゅんせいクリニック、通りを挟んで向かいが中華料理のとんとん亭と京華飯店。この辺りに移ってきた2005年頃に私も一度店に入っている。

 

 自分の鈍さを残念に思うのだが、あまりにも真っ当な古書店としての店内の様子を当たり前に受け止めてしまい本棚の様子などあまり覚えていない。何故神保町ではなく大森の、それも駅からかなり離れた場所にこれほどの古書店が存在するのだろうかということに思い至らなかった。再訪することはなく、2008年3月末日をもって閉店されたと認識している。

 

 その後、私が松旭斎天勝と三島由紀夫について書いた文章にいただいたコメントで「天誠書林」のご主人が三島由紀夫作品の舞台の演出助手を務められた方であることを教えていただいた。

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

 その後更に店主の和久田わくた誠男しげおさん*2和久田わくた三郎さぶろう先生のご子息であったことを別の機会に知って、三島由紀夫云々よりも残念に思うこととなった。「先生」というのは、和久田三郎さんは植芝盛平翁先生の合気道の直弟子なのだ。私などからすると尊敬すべき先達であり、たとえ「天誠書林」に何度も通っていたとしても父君のお話を聞くような機会を得るのは難しかっただろうと分かりながら、惜しいことをしたという気持ちは拭えなかった。和久田三郎先生は一般には大相撲の力士、そして力士の待遇改善を訴えて起こされた春秋園事件の主導者である天竜三郎関として知られている。

  

春秋園事件(しゅんじゅうえんじけん)は、1932(昭和7)年1月6日に発生した力士の争議事件である。 事件名の由来は、東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区大井)の中華料理店「春秋園」に立てこもったことに由来する。また、主謀者の名前から天竜事件、天竜大ノ里事件とも呼ばれている。複数の関取が、力士としての地位向上や大日本相撲協会の体質を改善するよう要求して協会を離脱したが、力士側の要求はほぼ受け入れられず、結局多くの離脱した力士が帰参した。

春秋園事件 - Wikipedia

 

 春秋園事件ののち争議を起こした力士達は大日本関西角力協会を設立するが、それも解散した後の1938(昭和13)年に和久田先生は満州に体育指導員として赴かれる。翌1939年の春に日本武道の普及のため満州に武道家達を招いたことがあったのだが、招かれたなかに植芝盛平翁先生がおられた。翁先生が説明演武の際に「我こそはと思うものは」と言われたのを受けて和久田先生は翁先生の左腕を持つのだがひしぐことができず、逆に投げ飛ばされたという話を合気ニュース社の『植芝盛平合気道』に収めらているインタビューでご本人が語られている。この時に弟子入りを志願、認められて三ヶ月という短い間だが本部道場で翁先生に認められるまで直接指導を受けられている。

 

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

 

 

 この話は合気道を修めている人間は知っていても、相撲ファン含め一般の人はあまりご存じないのではないかもしれない。Wikipedia の「天竜三郎」のページにも記載がないので、後日「人物」欄あたりに追記しておこうかと思う。

 

 ちなみに争議の時に和久田先生らが本拠とした春秋園は大井町にあり、以前調べてみたら確か今のイトーヨーカ堂のある辺りだった。和久田先生のご自宅はどうも大森山王にあったようであり、春秋園を使われたのも地元であったからかもしれない。ご子息誠男さんが大森ジャーマン通りに古書店を開かれたのも知った土地であったからだろう。

 

 余談が過ぎた。「天誠書林」は前述のように2008年3月末日で閉店され、ネット古書店での運用に移行されたと聞いている*3。「天誠書林」閉店後すぐあとに入ったのが九品仏から移って来られた「アンデス書房」という古書店だった。私は「アンデス書房」にもやはり一回だけ入った記憶がある。南米に関する本であったり民俗学、特に宮本常一さんの著書が充実していたとのことだが棚がどうだったかやはりほとんど覚えていない。宮本常一は地元山口の偉人であって(宮本さんは周防大島、私は長州の片田舎でちょっと離れているが)『忘れられた日本人』は愛読書なのだが、これまた自分の鈍さが恨めしい。

 

アンデス書房」は翌 2009年4月で閉店、同年6月に「東京くりから堂」が入った*4。私は「東京くりから堂」については遂に訪れないままだった。2017年夏頃に閉店されたと思う。アンデス書房さんも東京くりから堂さんも、ネット販売や古書市への出店はされているのではないかと思う。

 

 約2年間空き店舗だったのが、9月14日に「あんず文庫」が開店された *5。Bookshop Lover のポストを読んで数日後に行ってみて、笙野頼子さんの短編集を買った。丁度短編小説について書くことがあったのだ。店内にはバーカウンターがあるのだが先週末に再訪したところお客さんが二人座って店主と話しておられた。既に常連客さんが来るようになっているならしばらくは最寄りの書店は安泰ではないかと安心している。

 

大森 あんず文庫

 

*1:これを書いたあと『同時代の証言 三島由紀夫』(松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、鼎書房)に当たったところ1993(平成五)年開業とのこと

*2:書いた時点で「まさお」とルビを振っていたが、『同時代の証言 三島由紀夫』(松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、鼎書房)に和久田さんの略歴があるのにあたったところ「しげお」とあったので訂正しています。失礼しました

*3:和久田さんはその後も西荻ブックマークなどのイベントにも出席されていたそうだが2012年に逝去されたと聞いている

*4:「松旭斉天勝と三島由紀夫」にいただいたコメント情報

*5:あんず文庫さんの Twitter アカウントのプロフィールより