渡邉信之師範について私が知らなかったこと
1980年代に「Do!スポーツ」という番組がテレビ東京系列で放送されていた。私が奈良市立二名中学校、奈良学園高校、大阪市立大学に在学していた十代だった頃の番組で、「なんで Play sports やないねん」 などとツッこんでいたことを思い出す。
マイナースポーツを取り上げる番組、というイメージがあった記憶がある。 上記 Wikipedia の記事は2019年12月時点で出典が示されていないようだが、ある程度正しいと仮定して読むとモータースポーツ、アウトドアスポーツの回が圧倒的に多いようだが時々武道・格闘技の回がある。合気道は二回、取り上げられている。
二回目が私が大阪市立大学に入学し、合気道部に入部した 1987 年の放送で「極技空気投げ合気の世界」というタイトルである。私はその放送をVHSテープに録画したものを誰かに見せてもらっているはずである。動画検索を試みたが残念ながら見つけられなかったが、微かな記憶では渡邉信之師範が演武をされていたのを覚えている。それは座法で一教の抑えをされる映像を見た記憶なのだが(えっ)と思ったのを覚えている。文字にしてしまうと「渡邉師範は受けに触っていないのに受けは一教で抑えられた」という映像を見たのだ。
Youtube で、公式のものではないが、その雰囲気が分かる動画あった。一教(と思われる)場面の静止画像と合わせて掲示する。時期が書かれていないが、背後に飾ってある写真が植芝吉祥丸前道主のものであるとしたら1999年頃の全国合気道演武大会だろうか。
当時の私の師範は阿部醒石先生だが、大学生時代はあまり稽古をつけていただく機会がなかった。ただ一回生の時に創部二十周年記念式典があり、その際に阿部先生の説明演武を見ている*1。阿部先生も時に触れる前に制したり投げたりを演武でされることがあった。つまり私はそういう技の現れ方もあり得ると考えるような主観の持ち主なのだが、その私ですら渡邉師範の演武は(また少し違うようだ)と感じていた。今改めて上記の演武を見ると「ああ、これは導かれるな、分かるな」と思う技と「これは受け(受け身ではなく)を取り過ぎではないかな、自分だと違う受けになるのではないかな」と思う技の両方があるように感じる。
渡邉師範は今年、2019年8月20日に逝去された。 それを受けて大田区合気道会でも渡邉師範の指導を参考にした稽古をすることがあった。渡邉師範が整骨院を経営され、人体の仕組みにも造詣が深くそれが指導にも現れている……というようなことも知ることが出来た。
整骨院と柔道の道場が一緒にあるような例は時々見かける。柔道創始者の嘉納治五郎先生は最初柳生心眼流、次に天神真楊流に入門されているが、昔読んだ子供向けの嘉納先生の伝記では「骨接ぎの看板を掲げた家の門をいきなり叩いて柔術を教えてもらえぬか尋ね、入門を認めてもらった」というような書き方がされていた記憶がある。
合気道の師範でも柔道整復師の資格を取られている方や、それ以外の整体技術を習得されている方も結構おられるのかもしれないが、意外と耳にする機会が少ない。子母澤寛さんの随筆で「砂泊さんという合気道の名手に肩が張るのを見てもらっている」という記述をみつけて軽く驚いたのは少ない事例のひとつだったりする。
渡邉師範は磯谷公良氏が戦後間もなく創始した磯谷療法をまず学ばれたらしい。股関節の調整を重視するかも手法とのこと。この辺りの身体の仕組みと技との関係という理解についての詳細は渡邉師範のお弟子さんには引き継がれているのかもしれないが、合気道関係でそういった側面について記載している書籍や記事を今のところ見つけられていない。磯谷療法に携わっている方がネット上で公開されている記事がいくつかあって辛うじて概要がわかる程度だった。そのため渡邉師範について私のように「触らない技を演武でされる先生」とだけ思っているような不届き者は実は結構いるのではないだろうか。
渡邉師範がどの様に学ばれ、その結果を稽古に反映されていて、その結果が演武にどのように現れるのかということはこれから様々な稽古の現場でなされるのであり、今回私も大田区合気道会の稽古でその一端に触れたのかもしれない。
2011年3月26日 渡邉信之師範 本部道場最終稽古 (抜粋) Mar 26, 2011 Nobuyuki Watanabe sensei's Final Class@Hombu Dojo
*1:私が卒業した後に阿部先生が道場に来られる回数が増え、ご指導いただく機会が増えることになる
荏原町会館の隣の店の変遷
間も無くクリスマスがやってくる。昨年のクリスマス・イブの時のことだが妻は洋菓子店で働いていて一番の掻き入れどきとなる。普段は弁当を作ってもらうところ手間を省き、この日のお昼は各自でなんとかすることとなった。私は荏原町商店街にあるサンドウィッチ屋さんで買っていった。「ALL DAY BRANCH TO GO」というお店で通勤時間帯から開けておられて便利なのだ。開店が早い代わりに売り切れ次第今日は閉店とされている。
この店は先日書いた庚申公園と同じ荏原町商店街の並びにある。庚申公園や鳥唐揚げの「丸吉」、「GOJYA」というバー、「Lotta Lantern」というベーグル屋さんのあるところから東急荏原町駅に向かう途中。向かって右隣は商店街事務所と「cherry」という美容室(煉瓦の建物)。左隣は「桂庵」というお蕎麦屋さんがある。
「ALL DAY BRANCH TO GO」に初めて立ち寄ったのが2017年7月3日、夜勤明けにお昼にと買ったのだった。この時に店頭に開店一周年と書いてあって、もう1年ですか、初めて来ました、とお店の方と話した記憶があるのでオープンされたのが2016年7月だったはず。
その前はどうだったかというと、現在荏原町駅前にでっかく建っている駅前ビル店舗エリア一階の角に入居されている「さいとう化粧品店」が仮店舗を開いてらっしゃった。「さいとう化粧品店」は元々駅前の、現在駅前ビルの上層部マンションの入り口になっている辺りの、店として一番良い場所に店を構えていらっしゃった。しかし2014年4月から2016年3月までの二年間をかけて駅前にあった公設市場的なエリアを再開発して駅前ビルを建てる際に一度立ち退いて仮店舗に移られていた。この再開発は三菱地所レジデンスが受注して行われたもので*1、当時私も再開発前の情報や雰囲気を書き残そうとしている。
「さいとう化粧品店」は2016年4月に現在の駅前ビルが出来てすぐに入居されたように記憶しているので「ALL DAY BRANCH TO GO」がその年の7月にあまり間をあけずに入居されたということだったかと思う。
では「さいとう化粧品店」の前はどうだったかというと靴店が入っていた。そこまでは私の短い観測範囲でも残っている。「三美堂靴店」という店だった。この店が閉めることを決断されたのが駅前再開発が決まったあたりの時期だった。以下の写真が2013年7月7日に撮ったもの。当年中には閉められたような気がするが定かでない。翌年4月に駅前ビルの建設が始まったのでそれまでには閉められていたのは間違いなかろうと思う。
改めて写真を見比べてみると入居しているビルは同じで建て替えられているわけではない。とすると建物は「三美堂靴店」さんの建てられたもので、「さいとう化粧品店」以降は「三美堂靴店」さんに店舗スペースを借りられているのかもしれない。
ちなみに駅前ビルの道向かいに「麺屋ゆうすけ」というラーメン店があるが、ここも店名を覚えていないが靴屋があった記憶がある。同じ通りを東急大井町線沿いに荏原町方面に歩くと大東京信用組合の支店の百円ショップの Can Do の間に「カメヤ」という靴店が今もある。歩いていける距離内に靴店が三店舗あったということを知ると、荏原町が今よりも更に栄えていた商店街だったということを感じることができる。
*1:三菱地所レジデンスのリリースが現在も公開されている。PDF資料→「密集市街地の防災機能の確保を目的とした「防災街区整備事業」「荏原町駅前地区防災街区整備事業」権利変換計画認可取得」
大森山王ジャーマン通り 古書店の変遷
大森の「あんず文庫」という古書店を紹介する記事が Facebook で流れてきた。Bookshop Lover の和氣さんのポストで、近くまで来られたんだな、と思い「あんず文庫」の場所を確認してみて(あ、天誠書林のあったとこか)と納得した。
上記ポストへのコメントにも書いた、古書店の変遷を一部訂正の上もう少し詳しく、書いておこうと思う。
「天誠書林」がいつからあったのかはよく分からない*1。未読だが岡崎武志さんの『気まぐれ古書店紀行』に天誠書林が登場することから1990年代にはあったと思われる。大森駅から環七通りに抜けるジャーマン通り沿いの、環七寄りに行ったところ。隣が内科・小児科のじゅんせいクリニック、通りを挟んで向かいが中華料理のとんとん亭と京華飯店。この辺りに移ってきた2005年頃に私も一度店に入っている。
自分の鈍さを残念に思うのだが、あまりにも真っ当な古書店としての店内の様子を当たり前に受け止めてしまい本棚の様子などあまり覚えていない。何故神保町ではなく大森の、それも駅からかなり離れた場所にこれほどの古書店が存在するのだろうかということに思い至らなかった。再訪することはなく、2008年3月末日をもって閉店されたと認識している。
その後、私が松旭斎天勝と三島由紀夫について書いた文章にいただいたコメントで「天誠書林」のご主人が三島由紀夫作品の舞台の演出助手を務められた方であることを教えていただいた。
その後更に店主の和久田誠男さん*2が和久田三郎先生のご子息であったことを別の機会に知って、三島由紀夫云々よりも残念に思うこととなった。「先生」というのは、和久田三郎さんは植芝盛平翁先生の合気道の直弟子なのだ。私などからすると尊敬すべき先達であり、たとえ「天誠書林」に何度も通っていたとしても父君のお話を聞くような機会を得るのは難しかっただろうと分かりながら、惜しいことをしたという気持ちは拭えなかった。和久田三郎先生は一般には大相撲の力士、そして力士の待遇改善を訴えて起こされた春秋園事件の主導者である天竜三郎関として知られている。
春秋園事件(しゅんじゅうえんじけん)は、1932(昭和7)年1月6日に発生した力士の争議事件である。 事件名の由来は、東京府荏原郡大井町(現:東京都品川区大井)の中華料理店「春秋園」に立てこもったことに由来する。また、主謀者の名前から天竜事件、天竜・大ノ里事件とも呼ばれている。複数の関取が、力士としての地位向上や大日本相撲協会の体質を改善するよう要求して協会を離脱したが、力士側の要求はほぼ受け入れられず、結局多くの離脱した力士が帰参した。
春秋園事件ののち争議を起こした力士達は大日本関西角力協会を設立するが、それも解散した後の1938(昭和13)年に和久田先生は満州に体育指導員として赴かれる。翌1939年の春に日本武道の普及のため満州に武道家達を招いたことがあったのだが、招かれたなかに植芝盛平翁先生がおられた。翁先生が説明演武の際に「我こそはと思うものは」と言われたのを受けて和久田先生は翁先生の左腕を持つのだがひしぐことができず、逆に投げ飛ばされたという話を合気ニュース社の『植芝盛平と合気道』に収めらているインタビューでご本人が語られている。この時に弟子入りを志願、認められて三ヶ月という短い間だが本部道場で翁先生に認められるまで直接指導を受けられている。
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この話は合気道を修めている人間は知っていても、相撲ファン含め一般の人はあまりご存じないのではないかもしれない。Wikipedia の「天竜三郎」のページにも記載がないので、後日「人物」欄あたりに追記しておこうかと思う。
ちなみに争議の時に和久田先生らが本拠とした春秋園は大井町にあり、以前調べてみたら確か今のイトーヨーカ堂のある辺りだった。和久田先生のご自宅はどうも大森山王にあったようであり、春秋園を使われたのも地元であったからかもしれない。ご子息誠男さんが大森ジャーマン通りに古書店を開かれたのも知った土地であったからだろう。
余談が過ぎた。「天誠書林」は前述のように2008年3月末日で閉店され、ネット古書店での運用に移行されたと聞いている*3。「天誠書林」閉店後すぐあとに入ったのが九品仏から移って来られた「アンデス書房」という古書店だった。私は「アンデス書房」にもやはり一回だけ入った記憶がある。南米に関する本であったり民俗学、特に宮本常一さんの著書が充実していたとのことだが棚がどうだったかやはりほとんど覚えていない。宮本常一は地元山口の偉人であって(宮本さんは周防大島、私は長州の片田舎でちょっと離れているが)『忘れられた日本人』は愛読書なのだが、これまた自分の鈍さが恨めしい。
「アンデス書房」は翌 2009年4月で閉店、同年6月に「東京くりから堂」が入った*4。私は「東京くりから堂」については遂に訪れないままだった。2017年夏頃に閉店されたと思う。アンデス書房さんも東京くりから堂さんも、ネット販売や古書市への出店はされているのではないかと思う。
約2年間空き店舗だったのが、9月14日に「あんず文庫」が開店された *5。Bookshop Lover のポストを読んで数日後に行ってみて、笙野頼子さんの短編集を買った。丁度短編小説について書くことがあったのだ。店内にはバーカウンターがあるのだが先週末に再訪したところお客さんが二人座って店主と話しておられた。既に常連客さんが来るようになっているならしばらくは最寄りの書店は安泰ではないかと安心している。
荏原町商店街 庚申公園そばの変遷
先月の最後の週末、27日の日曜日の早朝に緊急で勤務先に出たことがあった。幸い大事なく対応して最寄りの荏原町駅まで帰ってきたのが11時過ぎだった。
駅から荏原町商店街を少し歩いて、庚申堂のちょっと先に公園がある。庚申公園という。その隣の三角形の土地があって、店が四軒分が並んでいる。左から二軒目に最近内装工事が入っていたのは知っていたのだが、前に立て看板が店の前に出ているのに気がついた。店が開いていないのではて、と思ったら開店が11時半からで、あと少しで開くらしいと気がついた。
店の名は「Lotta Lantern」となっている。店が開くのを待って、ベーグルを三つ買って帰ることにした。帰宅して店のウェブサイトを確認するとベーグルを売っているのは土曜と日曜の11時半から17時までだそうであり、運よく買えたということが分かった。お店の Twitter アカウントの自己紹介では「ベーグル屋」と書かれているが、ウェブサイトでは「アトリエ&キッチン」という表現を使っている。ワークショップなどもされるようで、そのため店主さんとしては後者の表現の方がぴったりくる感じなのかもしれない。家族で分けて食べたが、美味しくいただいた。
食べながら家族と話していたのだが、「Lotta Lantern」のあった場所は2005年に我が家が東京に越してきた時には和菓子屋さんが入っていた。来てすぐぐらいに家族で荏原町を散歩したことがあり、妻がこの和菓子店でおこわを買ったのを覚えている。「塩瀬」という店だった。その後この店で買い物をすることは無かった。
和菓子店が閉めてしまわれたのに気がついたのが2012年に入ってからだった。そこからずっとシャッターが閉まったままだったので七年以上空き店舗のままだったということになる。荏原町は割とすぐに店舗が埋まる商店街なのだが、例外的に長く次が入らなかった。上の画像は2013年当時まだ Google ストリートビューに残っていたの画像に取らせてもらっていたものだ。
上の空き店舗時代の様子を見ると建物自体は古そうだが、このたび内装もやり直していたのを前を通るたびに見ており今は良い空間になっているのではないだろうか。
この並びの他の店についても書いておくと、一番右、公園よりには丸吉という鶏唐揚げ屋さんがある。2010年5月に「最近できた」と自分が Twitter にポストした履歴がある。それ以前はどうだったか記憶に残っていない。なお荏原町だけでも駅の駐輪場の斜向かいに唐揚げ屋さんが出来たり競争があったはずだが、結局この丸吉が残っている。持ち帰り専門で、ごくたまにだが唐揚げや鶏皮せんべいを買って帰る、私としては割と愛用の店となっている。
「丸吉」と「 Lotta Lantern」の間の店舗は結構入れ替わりがあった。Google ストリートビューの画像では空き店舗になっているが、その後に「粕漬渡邉」という、魚の粕漬けを商う店が入った。お店のブログがまだ残っていて、2010年の日付の記事が読めるので丸吉と同じくらいの時期にはあったのではないかと思う。そのあとに「小芥子」という居酒屋になった。浅草線馬込駅近くにある馬込図書館に「芥子の坊」という居酒屋が今もあるが、2011年に一度建て直しをしている。建て直す前は左に「芥子の坊」、右に中華料理の「ミマツ」が並んでいた。現在「ミマツ」は北馬込のバス通り沿いに移っている。その建直しの期間中に「小芥子」を営業していた……という事だったらしい。「粕漬渡邉」のブログでは「芥子の坊」を「本店」と呼んでいるので、ご店主は同じ方だったと思う。2012年4月頃までに元の馬込図書館前で「芥子の坊」がリニューアルオープンし、そのタイミングで「小芥子」は閉められたと記憶している。
その後「小芥子」のカウンターをそのまま使ってイタリア料理を出す居酒屋が入った。「clutch(クラッチ)」という店で、Facebook ページが残されていて2012年6月頃にはオープンしていたと思われる。そして 2018年2月一杯で閉店されるところまでポストが残っている。約6年の歴史。そのあとに「GOJYA」というバーが入り現在に至っている。空き店舗だった期間は短かったような気がするが実際「GOJYA」の Instagram アカウントを見ると翌々月の4月辺りにはオープンしていたらしい。
最後に「Lotta Lantern」の左側だが、三角形の角部分の狭い狭い店舗スペースがある。「塩瀬」でおこわを買った時、「巨栄食品」という精肉店が入っていて、焼き鳥だかホルモンだかを焼いていた記憶がある。隣にあった「塩瀬」が閉店しシャッターが閉まっている写真でも元気に営業しているのが左に少し見えている。割と最近、2016年4月30日まで営業されていた。下は閉店翌月5月に撮ったもの。
ここもしばらくは空き店舗のままだったかと思うが昨年だったか今年に入ってからだったか、「YAMATO」という弁当屋が入った。開いている時間が日中だけな気がする。
最近の夜帰宅する際に見ている風景。
昼前の光景。左手前からYAMATO、Lotta Lantern、GOJYA、丸吉、庚申公園。
大森・平田歯科クリニック、私のかかりつけ医について
左下の奥歯がなんの前触れもなく欠けてしまったのは今年の六月の初めのこと。すぐにかかりつけの大森・平田歯科クリニックに電話したのだが、つながらなかった。電話は鳴るのだが出られない。結局この時は東急荏原町駅前の別の歯科医に診ていただいた。特に痛みなど自覚症状はなかったのだが、欠けた箇所の奥が虫歯になっていたとのことで治療していただいた。同じように歯が欠けたので診てもらったら虫歯が……ということが過去に妻にもあったので、よくある症状なのかもしれない。その時妻を治療いただいたのも平田医師だった。
さて、この時に気になって大森駅前、西友の前のビルまで足を運んだところ休院を知らせる案内が貼り出させれているのを確認した。これが6月4日のことだったので、あと数日で復帰されるのか、もうちょっとずれていればな……などと思っていた。
つい数日前、10月24日のことだがデンタルフロスを入れていて、左下奥歯にフロスが挟まったまま切れてしまい取れなくなってしまった。6月に荏原町の歯科医で治療してもらった場所だ。同じ医院で診てもらえば良いのだが、平田医師に診てもらいたいとおもいお電話を入れた。すると今度は「おかけになった電話番号は現在使われておりません……」のメッセージが流れた。
これは、と思い再度大森駅前まで出て様子を見てきたのだが果たして医院が入居されていたビルの二階フロアは空になっているのが見え、案内板からも医院の名が消されていた。
医院はもともとすぐ近くの区営駐輪場の向かい、一階にはんこ屋さん21やブランド品店の「MOKAN」という店が入っているアトラスビルという建物の3階だったかに入っておられ医院名も「大森北一歯科」だった。最初に診察いただいたのは 2008年3月頃だったと思う。
以来年に一度か二度は診察いただいてきた。何もなくても歯石を除去はしていただく。一度行くと、もう一回か二回に分けて診ていただいて、また半年ぐらい後に歯石をみましょう、となって終わる。妻も診ていただいたことがあった。今年私がなったように歯が欠けてしまったと思ったら虫歯だった……というものだった。
大森北一歯科では歯科助手さんがいらした。ある時に「朝起きた時にも歯を磨くのが良いようですよ」とアドバイスいただいたのはこの歯科助手さんで、以来起床時にも歯を磨くのが私の習慣になっている。斯様に十年以上の長きに渡りお世話になってきた。
2017年だったか2018年だったか、移転の案内をはがきでいただいた。同じく大森駅前、西友の前にあるフォレスタビルという建物の二階。そちらの方で診ていただいたのが 2018年 7月。歯石を取っていただいた。
その時に気がついたのだが新しい歯科では歯科助手さんはおられず平田医師しかおられなかった。私が行った時がたまたま助手さんがおられないとかではなく、平田医師が一人で運営されているように見え、おひとりであれこれされるのは大変だな、と思っていた。私だけでも十年以上診ていただいたので、それなりのお歳ではあったはずだ。医院の運営がどうだったかなど分かるはずもないがまた診ていただける可能性は限りなく少ない事は分かった。残念ではあるが、平田先生にはこれまでの謝意が伝わらないものかな、と思っている。
馬込あたりの秋祭り 二〇一九
「祭礼に付車両通行止
春日橋交差点←→山王くらやみ坂下
一般自動車・路線バス
9月1日(日)
午後3時〜7時まで」
という、大森警察署からの立て看板が出ていることに気がついた。
例年のように近隣の秋祭り情報をまとめておく。逐次更新。
8月30日(金)・31日(土)・9月1日(日)
熊野神社
秋の例大祭の皮切りはメガドン・キホーテ向かい、善慶寺の背後の丘の上に鎮座する山王熊野神社様の例大祭となる。
春日神社
環七通り春日橋陸橋近くの春日神社は、秋祭りはもう少し後になるのではないかと思うが8月31日(土)夜に「納涼祭」をされるような貼り紙を見た。なおこちらの例大祭は6月だったはず。
池上本門寺
もはや秋祭りでないものも入れていく。
2004年から開催の野外ライブ。本門寺の本堂向かって右にある区画にステージを設営している。31日に会場の横を通ってきて知った。
9月7日(土)・8日(日)
旗岡八幡
東急大井町線荏原町駅前商店街にある伊豆屋酒店さんは、最近たまにしか行けていないが夜は角打ちも出来るので自分の憩いの場にしている。最近は奈良の春鹿超辛口を、とある理由で買いに行ったりしている。そういえば厚木のサンクトガーレンさんの Twitter アカウントで、伊豆屋酒店さんから注文が入ったってポストがあって秋の例大祭シーズンを知ったら年もあった。
9月14日(土)・15日(日)
馬込八幡
湯殿神社
例年近くの馬込八幡と合わせて秋祭りがある。そばの湯殿公園で土曜日に子供相撲大会があるのが恒例。
著作権的に大丈夫か若干心配。許諾取ってるよ……ね?
NHKエンタープライズ キャラクターページ | チコちゃんに叱られる!
北野神社
昨年と同じいらすとやデザイン。
例年通り、馬込八幡と同じ馬込にある湯殿神社、北野神社、熊野神社は同じ日程になっている、はず。
昨年まで北野神社としてのポスターも貼りだされているが、8月末日時点ではまだ見てない。
……と思っていたら9月1日に掲示された。これこれ、このポスター。
9月21日(土)・22日(日)
大森山王 日枝神社
9月21日(土)
なかのぶスキップロード
秋祭りではないが、中延の商店街でよさこい祭りをやるらしい。昨年はねぶた祭りをやっていた。
9月22日(日)
天祖神社
9月28日(土)
春日神社
過去に秋祭りについについて書いたもの
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2012年
2009年
2008年
北野神社の子供神輿の巡行ルート地図あり
2007年
2006年
合気道において結びとは何か
6月16日の日曜日に足立区綾瀬の東京武道館で開催された、東京都合気道連盟の錬成稽古に参加してきた。指導は入江嘉信師範で二百名弱が参加していた。
稽古の最初の挨拶の際に入江師範は「最近稽古している『結び』と『吸収』についてお話ししたいと思います」ということを仰った。実際の稽古の中で「結び」や「吸収」について具体的に「これだ」ということは説明されなかったのだが、読み取ればここで仰っているのがそうだな、ということは感じられた。
稽古後の更衣室で同じ道場の方同士の会話で「吸収っていうのは分かったけど結びってのが分からなかった」という声があって、それはとても良い問題提起だと思った。「結び」という言葉は合気道では良く使うけれど、実は人によって定義にブレがあるかもしれないと気がついたからだ。
「むすび【結び】」を棚にある小学館の国語大辞典でひくとこんな感じである。
1. 紐状のものをからみ合せ、巻き込んでつなぐこと。また、そのような状態にしたもの。
2. 両手で水をすくうこと
3. 飯を両手で握り固めたもの。にぎりめし。
4. 焼き飯をいう。女房詞。
5. 人と人とを関係づけて、親しくさせること。
6. 文章、物語などの終わり。結末。
7. 文法で、係り結びの係助詞と呼応して、文を終わらせる語法をいう。
8. 集合における「ジョイン」
どれも厳密にいうと合気道において言う「結び」にはぴたりとは該当せず、敢えて言えば五番目が一番近い。正面打ちを打ち込むのではなく、手刀を合わせた状態から稽古することがあるが、それを「気結び」と呼ぶ場合がある。また、組太刀の基本に「気結びの太刀」がある。以下齋藤守弘師範の模範。
これらを受け取って稽古をしてきた私の「結び」の定義は「相手と調和した状態で相対すること」だろうかと何となく、思っていた。例えば私がこう定義したとして、師範の先生方がどう言われるか。そんなにずれることがないかもしれないが、微妙に異なる定義が出てくるかもしれない。もしかしたら、「それは言葉で定義することではない」とかいう意見が出てくることすらあるかもしれない。
取り急ぎ探してみると、菅沼守人師範と遠藤征四郎が指導されている公開動画で、「結び」と言う言葉が出てくるものを見つけた。おふたりとも植芝盛平翁先生の最晩年の内弟子だが偶然だろうか。
菅沼師範が説明されているのは、片手持ち、あるいは単に掌を合わせた状態で相手との力の方向を合わせた状態のことを「結び」と呼んでおられるように読み取れる。
Atari and Musubi 07_Seishiro Endo Shihan 当たりと結び07_遠藤征四郎 師範
遠藤師範は、相手が安定した状態で腕を曲げている時、その拳に上から掌を乗せて、そこから合わせて相手を導くことができる、と言うことを説明されている。動画中においては遠藤師範のお話しに「結び」と言う言葉は出てこないが、タイトルが「Atari and Musubi」となっていることから動画前後において「当たり、とはこういうこと、結び、とはこういうこと」とご説明があったのではないかと推測される。相手の拳について上への力に合わせるように(掌で上から押さえるとそれに対して堪えようとする。その力のことを仰っていると思う)ご説明されている、その部分が「結び」になるのではないだろうか。となると、菅沼師範と近いところを「結び」と表現されているように思える。
先ほど掲げた私の定義の範囲内であるとも言えるのだが、実は私としては菅沼師範や遠藤師範が示されているより前の、例えば片手を持った状態、拳に掌を合わせた状態のところを「結び」と捉えるところがあり、先生方の方が「結び」にあたるところが広いように感じている。
ではそもそも開祖はどう仰っていたんだろうと思い、植芝盛平翁先生の口述を何冊が本棚から取り出してきて読み返してみた。主に次の三冊。
読みはじめてすぐに思い出したのだが、翁先生が上記の本など晩年の口述において、技の基本について触れるはほとんどない。稽古修行することでひいては世の中をどう良くしていくのか、禊における考え方、古事記など神話に描かれている内容をどう読み解くのか、と言うお話しが主となっている。今回知りたい意図での「結び」についての言及には行き当たらないのだが、それでもちょっと面白いことに気がついた。
『合気神髄』は道場における植芝盛平翁先生のお話しを筆録したものであろうと思うのだが、「結び」が頻出している。何箇所か引用する。下線は引用者がつけた。
合気は宇宙組織の玉のひびきをいうのであります。すなわち全大宇宙のことで、小さなことをやっているのではないのです。教育者や年輩者は率先して武道の実践をしなければならないと思います。この道は全部、天に学び、地に学び、宇宙の中心に結んで、また、我々は宇宙とともに進んで、その上に自己の息で全部結ぶことをやり遂げていくのであります。
我々は魂の気の育成と、また、立て直しをしなければいけません。合気は宇宙組織を我が体内に造りあげていくのです。宇宙組織をことごとく自己の身の内に吸収し、結ぶ。そして世界中の心と結んでいくのであります。仲良く和と統一に結んでいくのです。これからはいうまでもなく戦争をしてはいけない。喧嘩争いはしないこと。すべては結びでやる。それがないと本当の強さは出てきません。それでないと皆さんの稽古が無駄になってしまうのです。
第1章 合気道は魂の学び より
「気の妙用」は、呼吸を微妙に変化さす生親である。これが武(愛)の本源である。
「気の妙用」によって、心身を統一して、合気道を行ずると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。この呼吸の変化は、宇宙に気結び、生産すび、そして緒結びされる。
また、呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。
こうなって、初めて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。
第4章 合気は息の妙法なり より
合気は和と統一に結んでいくのである。梅と松の仕組みである松竹梅の教え。これは何億万年前の昔からの仕事である。これは艮の金神の神の御教え、そして小戸の神業で、真人養成の道である。ホノサワケの島。天の浮島というのは「ア」は自ら、「メ」は巡るといい、自ら巡るというのが天の、浮島の方は……二つのものが水火結んでいく、霊界も顕界も一つにする。
第6章 合気とは禊である より
これらは私が目についたページを引用しただけで、他にも頻出している。
一方で、同じく口述筆記本である『武産合気』でも「結び」の語は出てくるのだが、かなり少ない、というのが今回気がついたことで、『合気神髄』と何が違うのか、ということになる。『武産合気』は白光真宏会の髙橋英雄さんが筆記されたもので、五井昌久さんと植芝盛平翁先生が親しかったことから口述筆記が実現している。つまり『武産合気』では翁先生は髙橋さんがおられる前提でお話しされている、というところに違いがある。「合気道とはこういうものです」ということを稽古していないひとに説明されているのと、五井昌久先生のもとで信仰の道にあるのと合気道の稽古しているのと共通する、大きな目標のようなものについて語られている部分とがあるように読める。となると例え概念的なお話をされていたのであっても「稽古において相手と向き合っている」という具体的な状況を前提に説明する場合において「結び」ということばを使う必要があった、ということは言える気がする。
技において「結び」ということばが使われかを知るために三冊目の『合気道』も読んだ。本当は『武道』にあたるべきなのだろうが、これは市販されているような書物ではない。直弟子の師範の方にお持ちである方がおられるという、免許皆伝書に近いようなもので、齋藤守弘師範は必ずこれを携行されてご自分の説明と合っているか、というのを稽古参加者と共有されるのに使われていた。他にもお持ちであるという師範のお話しを聞いたことはあるが、公にされていなかったりするのでここではお名前を挙げない……などという配慮が必要な書物であり、棚にある植芝吉祥丸前道主のこの著書に当たった。残念ながら全く出てきておらず、「結びとは」というようなことについては口述でしか説明はされなかったのではないかと推測せざるを得ないという結論になった。
という自分なりの「結び」についての研究を経たうえで改めて入江師範の演武動画を見させていただいている。なお「吸収」についてだけれど、相手と「結んだ」状態から相手に近づく際に、力が入ったままだとぶつかって跳ね返されたりする。そうならぬよう相手に近づくには、相手と「結んだ」まま、自分は力を抜いて相手の力をもらいつつ動くようになる。その動きのことを仰られていると理解している。