西岡先輩の寄稿文の発見
大阪市立大学合気道部のサイトに、旧三商大戦五十周年のイベントを一橋大学、神戸大学の各合気道部OBと行ったことを短くポストした。
稽古と懇親会とがあり、稽古は夢の島公園内にあるBunB東京スポーツ文化館で場所を借りて行った。神戸大学、一橋大学、大阪市立大学各合気道部OB会が交代で指導する形で行い、市大合気道部は私が全て指導を担当させていただくこととなった。この日も熱暑の日であり、技が終わるごとに休憩を呼びかけて給水されるように声をかけて行った。普段稽古されていない方が久しぶりに道着に袖を通されたような場合でも参加できるような内容を考えていたのだが、気候的に普段から稽古している方でも厳しいような感じだったので少し強調して休憩をいれるようにした。
懇親会は一橋大学如水会館で行ったのだが、市大合気道部OBとして大きなできごとがあった。一橋大学の五十年前の部誌に、合気道部創始者である西岡先輩の寄稿文が残っていたことが共有されたのだ。
今までも西岡先輩については何度も書いてきた。在学中に亡くなられた西岡さんについて、我々に残されていた情報がとても少なく、少しでも残っていることは書いておこうとしてきた。どれくらい情報が少ないかといえば、西岡さんの下の名前すら分かっていなかった。それが今回寄稿文に「西岡正広」と書かれているのが分かった。ちなみに文末に幹部部員の情報が書かれているが、コピーを重ねたせいかあとの方は文字がかすれていて「西岡貴広」のように読めるのが悩ましいところだが、冒頭は間違いなく「正広」とある。
西岡さんが書かれた文章というものも市大には残っていなかったから、その意味でも初めての発見。原稿用紙2枚ちょっとの分量で後半は合気道部の行事予定と幹部部員を記載した事務的な文章だが、前半は西岡さんなりの言葉で「合気道を稽古するとはこういうことだとおもう」という内容が書かれていて興味深い。合気道部の後輩として、というだけではない。西岡さんが高校時代から北野高校合気道部で稽古されていて、植芝盛平翁先生来阪の折には受けに指名されることがあったという話を思うとき、その時代の翁先生に直接教えを受けていた弟子がどのように考えて稽古に向き合っていたのかということが言葉に残っているということが貴重に思える。
これまでに西岡先輩について書いたもの