スポーツの現場でのコーチング

 子供であれ大人であれ初心者の方にお教えするのは逆に自分にとって勉強になることが多い。自分もたいがい長いこと稽古させていただいているのでどうご説明してやってみていただくかということはだいたいすらすら出せるつもりでいるのだが、師範が指摘されるポイントが自分が考えている説明と違う観点のものであったりするとはたと考えてしまう。いったいどちらの説明が当人にとって響くのだろうか。

 

 先だっても合気道の指導をコーチングという切り口で書いたが、スポーツや武道といった分野でコーチングの手法というのは確立されているのだろうか、それとも各競技や流派において優れた指導者のノウハウが蓄積されているに過ぎない状態なんだろうかとちょっと調べてみた。どうも後者のような気がする、というのは技術的な教本はあってもコーチングについて書かれた本はそれほど見当たらない。また分野もビジネス書や児童教育書はあってもスポーツという観点のものは少ない。どっちも通底するので分かれている必要はないのではないか……という考えもあるのかもしれないが例えば学校教育と一般のクラブチームなどの活動、社会人としての場というのは一定の住み分けがあって、互いの交流があまりなかったりするのを鑑みるとそれぞれの分野に特化したコーチングの体系があっても良いような気がする。

 

 今回読んだのは水泳の平井伯昌ひろまささんが書かれたコーチングについて書かれた新書『見抜く力―夢を叶えるコーチング 』。平井さんは北島康介選手のインタビューで名前が出たことがあるのでなんとなく存じ上げてはいた。水泳選手の指導においてのご自分の経験をまとめられた本である。

 

見抜く力―夢を叶えるコーチング (幻冬舎新書)

見抜く力―夢を叶えるコーチング (幻冬舎新書)

 

 

 そもそもコーチングについてちゃんと勉強するのが筋な気がするがまずは取っ付きやすいとこからということで。コーチングに重要な資質は次のようなところになるようなので、これと武道やスポーツにおける実例を比較すると分かってくるのかもしれない。

 

「5つの資質」と呼ばれる傾聴、直感、好奇心、行動と学習、自己管理の各要素

コーチング・バイブル(第3版) より

 

  で、実際に読んでみたら(あ、これは共通することを平井さんは書かれているな)とおもうところがあった。

 

伝え方について

 ところが、泳ぎの悪いところを修正し、より改良していこうとするときには、問題点を一つに絞らなければならない。そのポイントが複雑になると、泳ぎに集中できなくなって、修正することが難しくなるのだ。

 たとえばクロール選手の場合、水に入るときの手の動きが悪かったとする。それを指導するときに、「手の親指側から水に入れろ」と伝えるだけの単純な修正ならわかりやすい。

 ところが、本当はそのときにいちばん意識しなければいけないのが、肩の動きであるケースもある。手だけの修正では、本質的な問題解決にならないのだ。その場合、どう伝えれば効果的なのか。

『見抜く力―夢を叶えるコーチング 』 「ワンポイントで伝える」の章より

 

 一回の稽古で伝える要点はなるべくひとつにしたほうが良いとは、子供との稽古であれ大人とであれいつも意識している。例えば稽古を始めて間もない方で足が揃って立ってしまっていたりするのが見えたとしたら「きちんと半身を取る」ということだけを短い稽古のなかでは言うようにする。

 

  さらには冒頭に書いたようなことで、自分が思っている「ここを直したら良くなる」ということが相手にとってすっと入る指摘かどうかまで考える必要があって、自分が思いついた指摘と師範が授けて下さった指摘の両方を話せば良いというようなものではない。そこも意をおかなければならない。

 

「5つの資質」でいうと傾聴、直感、行動と学習あたりがここに関係してくるだろうか。

 

人間の基礎のしての礼儀

 国体や国際大会といった公式試合に出場する選手の中にさえ、挨拶がいいかげんだったり、人に対してきちんとしたお礼が言えないような選手がいる。

 またプールの中でも、思ったような記録が出なくて、タッチ板を殴りつけた選手もいるし、練習中に波があって泳ぎにくいとか、他の選手の手が当たったから泳げなかったなどと、自分の成績が伸びないのを環境のせいにしたり、人のせいにしたりする選手もいる。そういう人間は、問題の本質から逃げることになれているので、結果伸びない。

『見抜く力―夢を叶えるコーチング』 「成績より、人間を見よ」の章より

 

 ことに子供については、技よりも礼や挨拶、姿勢のとりかたなど立ち居振る舞いについて教える方がよっぽど大事だと考えている。今までも何度かそんな主旨のことを書いたことがある。いつか道着には袖を通さなくなるかもしれないけれど人生のどこかの場面で道場で教わった振る舞いが役に立てばお父さんお母さんが月謝を払った価値はあったということになるのではないかと。

 

 オリンピックでメダルを狙うぐらいのトップレベルの選手をみるコーチが「やっぱり成績さえよければ良いなんてことは成立しなくて、人間としてきちんとしていなくてはだめだよ」という主旨のことを言われているのは重たい意味を持っている。世界は広くて人間としては問題があるけれどその分野においてはすごいという人間はごくまれに居るのだろうが平井さんの書かれているようにほとんどの場合結果を残さずに終わるのではなかろうか。さらに稀な例としてなんとなく野球のタイ・カッブ清原和博、ボクシングのジョン・L・サリバンを思い出しているのだが、範とすることが甚だ難しい。

 

 こういった人間の基礎としての立ち居振る舞いというものはコーチングという切り口ではどう扱われるのだろうか。法律の前提となる信義則のようなものな気がするが理解できたときにはまた書いてみよう。