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椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

馬込の地名 松原及び三本松

まち

 環七通りの上を第二京浜道路が通るのが松原橋で、日本国内でも大気の汚染の具合が最もよろしくない地点のひとつとして知られている。松原というと先に書いた赤羽という旧の小字の南かとおもっている。公園やマンションの名前に今も使われている字名である。

 

 この辺りはかつて一面の松原だったんだろうな……と想像する。

 

 さて同じ「松」がつく地名で(字名として使われていたんだろうか)と疑問に思っているのが三本松。昭和初期以前の地図を見るときには注意してみているがバス停名、あるいは現在の町会名としてしか現れないような印象を持っている。

 

 以外と最近使われるようになった地名なのだろうか……と感じていたのだが、三本松がかつては馬込のランドマークだったのだということが分かる本に最近出会った。

 

馬込風物誌

馬込風物誌

 

 

  田澤恭二さんの『馬込風物誌』。アマゾンで偶然行き当たったのだが、タイトルに「馬込」と入っていてまだ読んでいない書物があったろうかと最初は不思議に思った。つい昨年、2013年に刊行された若い本であると知った。田澤さんは馬込第二小学校の卒業生で、読む限り馬二小のOBに向けて書かれた文章群をまとめて本にされたということらしい。

 

 田澤さんは大学図書館の司書を務められたのち大学及び短期大学の司書科の教員を務められた方。父君は青森出身で馬込に住んだ洋画家の田澤八甲氏である。本の表紙も八甲さんの作品が使われている。萬福寺の門前の坂をバス通りの方にあがった坂上にお住まいであったらしい。

 

 この『馬込風物詩』に『"三本松"とお巡りさん』という章がある。書き出しはこのようである。

 

 見事な松の大木が三本並んでいた"三本松"は、恐らく馬込随一の名勝であったと思う。この三本の松は、臼田坂から荏原町駅へ行く目蒲バスの停留所「三本松」の側に聳えていた。馬込橋から緩やかな坂を登って行った右側にあり、根元の前には交番があった。私が幼い頃はちゃんと三本生えていたが、そのうちに雷で一本が焼けて伐られ、二本になってしまった。しかし、二本になってもバス停留所の名の「三本松」はそのままで、今でも地図をみるとその名が残っているから愉快である。松は本当に大きくて、根元に近寄って上を見ると、てっぺんが見えない程であった。「亭々たる巨木」とは、あのような樹を言うのだろう。

 

 田澤さんはおそらく昭和5年頃のお生まれではないかと思われるので松が三本聳えていたのは昭和初期ごろまでだったということになる。その頃まで辺りの「松原」が残っていたのか分からないが圧倒的な樹様であったのだろう。また大層な樹齢であったろうから遡っても「三本松」として近隣に認識されていたのかな、という気がする。

 

 以前もとりあげた1963年(昭和38年)に池田信さんの撮った新馬込橋、すなわち三本松バス停付近の写真は交番はぎりぎり写っておらず、このころまだ二本残った松がまだ聳えていたかは分からない。  

 

 

 田澤さんの書かれたものの続きには面白いことが書かれている。

 

そして先日、私は"三本松"の二本が健在かどうか知りたくなり、大田区立郷土資料館へ電話したところ、「一本も残っていません」との事だった。私が子供の頃"三本松"を見たと言うと、係りの人は「正確な場所を教えて下さい」と言った。係りの人は実物を見ていないようであった。交番の後ろだと教えたが、交番だけは今もあるそうだ。往時茫々とはこの事だろう。

 

 そう、交番は今もある。裏は天祖神社の狭い境内で、社の裏にはごく小さな塚が残っていて、三本松塚とも呼ばれていたと認識している。松は切株すら、残っていないのだろうか。郷土博物館が「ぜひ教えてほしい」と確認されたというのは大田区でも資料や口碑を集める余地がまだあるのだろう。

 

 ところで大田区立図書館のサイトで蔵書検索した限り現時点(2014年12月)『馬込風物詩』は所蔵されていない。もしかすると馬込第二小学校の図書館にもまだ所蔵されていないのではないだろうか。昭和初期ごろの馬込の風俗や風景が詰まっており、馬込第二小学校設立直後ごろの貴重な情報も散りばめられている随筆集でもあるのでもっと広く読めるようにされて良い本のように考えている。

 

馬込の地名シリーズ

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