馬込の地名 赤羽

 先に「続日本紀の乗潴駅ではないか」という説で紹介した天沼の南にあった小字を赤羽という。新馬込橋の架け替えの話しを先日書いたばかりだが、この新馬込橋辺りも含まれる。現在の「三本松町会」に近い領域ではないかとおもわれ、三本松の町会名があるため現在「赤羽」という字についてはほぼ聞くことがない。ただ昭和初期以前の地図をみているとこの「赤羽」の地名が天沼の南に書かれているものが見つけられる。

 

「赤羽」ときくと関東に住んでいると北区の赤羽を思い浮かべるのではないだろうか。あるいは芝公園にある赤羽橋を思い浮かべるだろうか。

 

 都内だけですぐに二箇所でてくるように「赤羽」という地名は東日本にかなり多いようにおもえる。馬込の赤羽は現在行政上の地名からも町会名からも消えてしまっていることを考えると他にも赤羽はあるかもしれない。

 

 複数箇所でみられる地名であることから共通の意味を持っているのかと調べると「赤埴」の転訛であるという説に必ず行き当たることに気がついた。赤埴、ないし赤土、ということはかわらけを焼くのに良いような土が採れる場所だったということかと思われる。

 

 この赤羽の地名の由来、確かにそれらしいのだが「あかはに」から「あかはね」への変化が一律であるように見えることが引っかかる。この地名東京以外にも「赤羽」ないし「赤羽根」でちょくちょく見られるのだ。特に東日本に多いように思われる。全国の赤羽を網羅したサイトを運営されている方までおられる。

 

nature1818.jp

 

 ただ東京でも例外はある。舎人ライナーで西日暮里の隣の赤土(あかど)小学校前がそれで、もともとはどこも「赤土」「赤埴」だったのがある時代に流行のように変わっていっただけで、足立区の赤土は取り残された地名なのかもしれない。

 

 馬込の赤羽は昭和七年の「東京府荏原郡」から「東京市」への編入に伴う町名地番変更時に消滅してしまった。赤羽を含む辺りは「馬込町東4丁目」となってしまった。今は環七通りと第一京浜道で分けられて北馬込、東馬込、中馬込に渡る地域である。

(昭和七年の町名地番変更)

   変更前の町名       変更後の町名   
天沼、赤羽、後谷、霜田、堂寺、松原      東京市馬込町東四丁目      

 

 大森というと大森貝塚がある位で縄文時代から人は住んでいた。赤羽の少し西にも馬込貝塚があり地名としても「貝塚」がある。つまりこの辺りに住んでいた縄文期以降のひとたちは赤羽辺りの土が土器をひねるのにいいぜ、ということを共通認識として持ちながら暮らしていたのだろうと想像する。

 

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 大田区教育委員会刊行の「大田区文化財 第24集 地図でみる大田区 (1)」に掲載されている「昭和7年9月新区内町界町名整理案内図(荏原郡)品川区・目黒区・荏原区大森区蒲田区・世田谷区」より 天沼、赤羽は右上

 

馬込の地名シリーズ

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