ロンドンオリンピックの武術競技たち

 普段新聞を読まないのだが、実家に帰っていた時に日本経済新聞と山口新聞があったので読んでいた。日経新聞のスポーツ欄で、予想に反して振るわなかった柔道競技についての記事が載っていた。

 うろ覚えだが、記事における問題提起は下記のようなものだったかとおもう。

  1. 柔道は、嘉納治五郎先生以来の武道とオリンピックなど競技とふたつに分かれているが、日本の選手はどちらにおいても結果を求められていて結局どっちつかずになってしまっている
  2. 代表選手らは課せられた国際試合をまじめにこなしていて、それが結果的に選手を疲弊させることになっている

 私などは合気道の修める人間で、柔道は高校の授業以来実際にやってみることが無い。よそ者である点は武道や武術の経験のなくオリンピックを見られている方々と大差は無く、ただ稽古の中で(ここで柔道を知っている相手であっても同じように技ができているか)というような事はいつも考えるのでかろうじて『帯をギュッとね!』全巻読破の経験から得た知識でもって柔道を見ている。

帯をギュッとね! (1) (小学館文庫)

帯をギュッとね! (1) (小学館文庫)

 以下は実家でテレビをみつつつらつら考えていたことである。

フェンシングと見比べて

 一番目の指摘「武道と競技の両方で結果を求められている」点について読んで私が連想したのがフェンシング競技だった。

 今回のロンドンオリンピックではフルーレ団体男子で銀メダルを勝ち得たことでフェンシングの試合はよくテレビ報道でも見たが、「どちらの攻撃が先に当たったか」ということが電機審判機によって判断できるようルール化、システム化が進められているのを改めて認識した。だが自分の記憶からフェンシングというものを辿っていくとどうも『円卓の騎士』だの『三銃士』だののおはなしに出てくるような、騎士道と結びついた剣の技術というイメージが先に立ちどうも違和感がある。

 手っ取り早く Wikipedia を参照し、国際フェンシング連盟(FIE:Fédération Internationale d'Escrime)についての説明の項を読んだところ得心するに至った。

フェンシング - Wikipedia フェンシング - Wikipedia

今日的な視点で見ると、FIEの設立は

・「スポーツ的な」フェンシング(独自に決められたルールで行われる試合に勝つことを目的としたもの)

と、それ以外の

・「伝統的な」フェンシング(護身あるいは公式の決闘の手段としての剣術を探求するもの)

を、決定的に分断したものであったと言える。

 伝統的なフェンシングは恐らく今も存続しているのだが、国際フェンシング連盟が担当するのは競技としてのフェンシングの定義である、ということらしい。

 東京オリンピックで柔道が正式種目となった時点でも「分断」が起きた。おそらくテコンドーにおいても「分断」は起きている。いずれに起きたことも同じようなものだが柔道においてもテコンドーにおいてもその「分断」の定義にまだ甘い部分が残されているのでないだろうか。

 それが混乱を生んでいるならばより定義を細部まで及ばせばよい。例えばだが、日本拳法の試合においては着衣の乱れが減点対象として勝敗に影響するという話を昔格闘技通信誌で目にしたことがあるが、そういう話である。

 あとは柔道を生んだ日本で応援するものとしては、武道としての柔道と競技としての柔道は別に存在していることをきちんと認識してみれば良いのではないだろうか。思えば最初の無差別級金メダリストであるアントン・ヘーシンク選手が武道家としての振る舞いが出来る方だったことが我々にオリンピック柔道競技も武道であるかのような幻想を抱かせたのかもしれない。金メダルが決まった瞬間、喜んで畳に上がろうとするオランダチームのスタッフをヘーシンク選手が制して上がらせなかったのはよく知られた話だ。

 柔道において言動や奇声などを反則とする規定は既にある訳だが、畳に上がっての振る舞いや着衣、礼儀に関してまで規定を増やすというのもひとつの道ではないかと考えたりする。

 一例だが、ロンドンオリンピックの柔道競技の畳は一段高くなっており、そこに上がって呼ばれたら試合場に入る。試合が始まる際に礼をしない選手はあまりいないような印象を受けたが(礼がちゃんとしていない選手は結構いたがそれは措いておく)通路から畳に上がる際、下りる際に礼をしている選手は少なかった。そのような信義則としてしか共有していない事柄をルールにしてしまうということなども競技柔道として考えられることかとおもう。

義務感の害

 二つ目の指摘「国際試合への皆勤による選手の疲弊」について。

 機会があれば積極的に外に出て自らの実力を磨くことは良いことで、その場が与えられていることに問題は無い。

 問題はどのような意識で強化メンバーがそれらの試合に参加しているか、という点にあるのではないかとおもう。

 目指すべき道が「武道としての柔道」にあるのか「競技柔道」にあるのか曖昧なまま、下りてくるスケジュールに従って試合に参加しているとすれば、記事にあったような疲弊が生まれるかもしれない。

 自分の身近な言葉で表現しようとすることは誤解を招くのかもしれないが敢えて書くと、経験上「義務感が先に立ってやった」事がろくな結果になったことが余り無い。自分に「本当にやりたい」という気持ちがあってやって初めて良い結果が生まれてくる。これは私が何か判断しないといけないような場面では必ず出してくる基準のひとつである。

 当の強化選手からすればそんなことを言われれば(そんな主体性無い有様でやってなどいない)と反感を持たれるだろうが、困ったことに閉じられた場においてはその場の常識に支配されてしまうようなことになって、意図せずに義務感を自分の意思として動いてしまうことがある。そうならないように導くのがチームでありコーチなのだろうが、上記の通り認識違いを生む素地自体が閉じられた組織にあるのならばなかなか難しい。この問題は個人の意思が強固ならば打破できないでもないだろうか、根本的には組織としての在り方をどう反省するかということに依存するのだろうとおもう。

 引き合いに名前を出して恐縮なのだが、唯一金メダルと取った松本薫選手は競技柔道に徹して結果を出すということについてかなり肝が座っているように見えた。試合前の彼女の様子を映像で見た方はかなり入り込んでいるのを見たかとおもう。実際入り込み過ぎて(あんなに試合後の礼が雑で良いのか)と思った瞬間が私などは思ったのだが、今のルールにおいて省略できる礼は省いても集中することに時間を使った彼女は正しい。だからこそ私はルールに礼までも取り込んではどうか、というようなことを先に提案した訳である。

 先の北京オリンピックにおいては石井慧選手が競技柔道に徹したひとだったかとおもう。

 実は4年前、やはり丁度実家須佐に祖母の一回忌で帰郷していた時にオリンピックの柔道をやっていたが、丁度100kg超級の試合は綺麗に見損ねていた。よって石井選手の試合内容や、試合後のインタビューが多くの方々に不興をかっているのを不思議に思っていた。

 オリンピック後すぐに石井選手が柔道選手としてはあっさり引退しプロの格闘技の道に進んだことも賛否があったが、彼は無用な義務感から比較的自由でいられる性格の持ち主であり、日本柔道チームの中で軽々と浮いていて平気でおれただけではないか。彼は自分の意思で結果を勝ち取った訳だが、そろそろ組織として選手が義務感にあまり縛られないような仕組みを考えるようオリンピックの結果は促しているのではないかという気がする。