知的コンプレックスって何やねん

「知的コンプレックス」って言葉が話題になっているのを面白く読んだのだが、書いているひとのパッションだとか、ロジックだとかで面白く感じたのであって、はたと思い当たったのが「その、知的コンプレックスゆうのは、なんやねん」ということだった。

 たぶん一般的に日本語で使われている「劣等感」という意味で使われたのだと思うのだけれど、もともと本文へのコメントとして書かれたものであり、コメント書いたのが誰なのか分からない状況のようなので掘り下げようのないことなのかもしれない。

 それでも、本文の書き手「しお」さんの煽りに応じてつい、書き始めている。

「はてな」という、知的コンプレックスがある人たちのコミュニティ - 日々の色々・The colour of the sun


「知的コンプレックス」=「知的劣等感」だとしてつまり、ちょっと知的なこと書きたいが、そんなに知性を持ち合わせているわけでもないし、という自虐感を持ち合わせながら書いている、ということと定義してよいのかな。もっといえば、自虐感を押し隠しながら知的に書こうとしている、というからかいの意を含んだ表現なのだろう。「はてな村」なんて表現もあるようだし、緩いコミュニティーとしてはてなダイヤリーはてなブックマークは機能しており、その利用者の傾向を揶揄するひとは一定の数いるのだろうとおもう。

 いままで「はてな」を利用していることについて特に分析をしたことが無いのだが、自分のことを一例として書く。

 大阪在住時代の私が2003年夏ごろにブログサービスを利用しようとする際、京都でスタートしたサービスである「マイプロフィール」(後のドリコムブログ)と「はてな」に登録をした。比較的身近だったし、たしか両社のひとの話を聞く機会もあったと記憶している。ユーザーインターフェースが気に入った「マイプロフィール」を使っていたが、レスポンス悪化で更新がままならない状況となり、かつ状況が改善されないことに業を煮やして眠らせていた「はてな」のアカウントで更新するようになった。思えば丁度東京に移って来るのと合わせて切り替えた。

 それからまもなく4年経つが、はてなの各サービスを利用し、今のところ他に移る気も全くないので、私も立派な「はてな村」の住民なのだろうとおもう。使い続けるのは、なぜだろう?

 探せばはてなでスパムっぽいブログをつくっているひともいるだろうがそんなに目立たず、主義主張や文体は異なるにせよ「自分の知識や知見、分析を発信する」というひとの方が目立つし、そういう雰囲気を好んでいるかもしれないとは「しお」さんの指摘を読んで改めて認識した。私が「はてなの雰囲気を好んでいる」のを「知的劣等感があるからだ」と評されればそうなのかもしれないけれど、自己評価としてそれはないなぁ。

 はてなブックマークにしても、実際多くの情報にはてブ経由で接しているが、ブックマーク・コメントでついネット上の世論を伺ってしまう、という恥ずかしい行為を密かにやっている。それを「知的劣等感の表れ」と言えばそうかもしれないけれど、世論に流される時もあれば、浮いていてもこれでいいや、とおもう時もある訳で、やはり劣等感があるという自意識は感じていない。

「自分の知識や知見、分析を発信する」のがいいという人もあれば、もっと軽く書き飛ばすのがいい人もいる。内輪でだけ書いておればいいという人もいる。ひとへの批判や揶揄をコメントに書くのが快い人もいて、それ全部が日本語を使った文化としてあるのだろうし、文化の外から見た場合にコミュニティーとしての「はてな」に着目する選択肢があっても、良いのではないかとだけおもう。

 あと「人間はどうしようもない卑しいものだけど、それを知りながら立派な存在になりたいとあこがれるものではないか」みたいなことを「銀座まるかん」の斎藤一人さんが書いていて(正確な表現は違った気がする)分かる気がしたのだが、これは上記「知的劣等感」に近い表現のような気がする。これが分かる気がするというのは、私が「はてな村の住民」だからだろうか。「日本人」だからかだろうか。「日本人だから」が理由であるならば、「知的」についてかどうかはともかく、この手の劣等感は日本人広くある感覚かもしれない。

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