イスラエルのイメージ戦略に対して

『闇の奥』の訳出で実績のある藤永茂さんが、村上春樹氏のエルサレム賞受賞セレモニーでのスピーチについて書かれている。

私の闇の奥: エルサレム賞のことなど


 バラク・オバマ氏が決して「黒人の代表」などではなく、むしろ新ユダヤ勢力であることを指摘し、大統領選の時点からその欺瞞を指摘して来られた藤永さんの論調はここでも鋭い。

 村上春樹氏のスピーチによるイスラエル批判を許容することで、あたかも言論の自由が保たれているような虚偽を他人に信じさせる、またイスラエル自身がそう信じたいと願う集団心理があるとする。

 そしてイスラエル批判が赦されるのは言論自由社会のイメージ創出に貢献する限りであり、実害が生じて差し引きマイナスになるならば即刻停止されることになるだろう、と予言されている。そして、村上氏にしろ他のイスラエル賞受賞者にしろ、どのような反応を示し行動するにせよ釈迦の掌のうえで走り回る孫悟空のようなものだとし、そのようなイメージ創出に作家を利用するイスラエルのやりかたに異議を唱えられている。

 この指摘について同じ村上春樹氏について書かれた文章で、id:inumashさんが書かれた下記に思い当たった。

村上春樹とエリア・スレイマン - 想像力はベッドルームと路上から


 パレスチナの映画監督、エリア・スレイマン氏を連想されたことを書いている。ここで言及されている映画『D.I.』はこの文章ではじめて知った作品で見ていないが、今度TSUTAYAに行ったら探したい。

 上記でこの『D.I.』は2002年のカンヌ映画祭では審査員賞と国際批評家連盟賞を受賞したのだが、アカデミー賞においては「パレスチナという国家は存在しない」という理由から外国語映画賞にノミネートされなかった、ということが書かれている。

 藤永さんの言葉をお借りすれば映画『D.I.』は最初からイメージ創出よりイスラエルへのイメージダウンが大きいと、判断されたということになるだろうか。もちろん、エルサレム賞の選考とアカデミー賞の選考、同じ主観が結果を生んでいるというほど世の中シンプルではないのだろうが。

 このような権力や財力を背景に「イメージ創出」を手段にするやりかたを前にして、小説家や映画監督が及ぼしうる影響力は確かに小さいかもしれない。

 そのようなこと、釈迦の掌の上にいることを飲み込んだ上で、今回村上春樹氏はイスラエルに行き、スピーチをするという行動を選択しただろうと感じているし、藤永さんも村上氏の行動を否定する意図で書かれたものではないとおもう。

 そして、小説家や映画監督が一歩踏み出すことで、それを受け取る読者や観客も半歩踏み出す勇気を持ちうるのだろうとおもう。その積み重ねでもって、未来は動かし得るということは、忘れずにおきたい。