椋箚記

主に合気道とまち歩きについて

怪談ばなし その2

「怪談ばなし」を書き残しておこうとおもったのは、奈良の実家がなくなることもあるが、もう一回不思議な体験をしたことがあるからだ。これは私が家を出て、大阪は森之宮に住んで仕事をし始めたあとの話である。

 住んでいたのは森之宮の公団住宅、現在はUR都市機構の賃貸住宅である。

猫間川をさがせ』の中でも書いたのだが、この公団住宅も旧大阪砲兵工廠に含まれる。

 大阪砲兵工廠は現在の大阪城公園や京橋のビジネスパークから、東は現在の平野川近くまでその敷地であった軍需工場である。終戦前日の8月13日深夜から終戦の8月14日にかけて集中的に空襲を受け、壊滅した。終戦後も長くそのままの状態で放置されていた。この空襲がいかに人道的にひどいものだったかということについては、『大阪砲兵工廠の八月十四日』という書籍があるので是非読んでほしい。

大阪砲兵工廠の八月十四日―歴史と大空襲

大阪砲兵工廠の八月十四日―歴史と大空襲

 日本軍にしても731部隊の存在であるとか、統率しきれていない軍隊による他国での行為であるとか、沖縄戦で民間人を楯にした行為であるとかあるわけで、戦争というのがそういう醜いことを生むものだ、ということなのだがここではそれは本筋ではない。

 いつも読んでいる『十三のいま昔を歩こう』で、この大阪砲兵工廠あとについて、大阪城ちかくにあった建物を1981年(昭和56年)に大阪市が強制撤去したという話を知った。当時の朝日新聞記事においても「反対の声があるのにこっそり許可を取り強行した」「明治時代の建築が抹殺された」と非難されている。

大阪砲兵工廠本館の取り壊し - 十三のいま昔を歩こう

 新聞記事の実物は当方読んでおらず、新之介さんが本文内に引用しているのを読んだだけだが、大阪における政治家も行政もいかに先を見通すちからがないかがわかる。明治期の建築物を壊し、不要な箱物を税金で作り、その施設が生む借金で破綻直前まで来ている。砲兵工廠建築の取り壊しを強行し、都市を破綻寸前まで追い込む判断をした人間がいまも責任を取らずにいるのだ。

 それもこのたびの話の本筋ではない。

 建物を壊した代償のように大阪城公園内にたてられた碑(あとでつくられた石碑などに何を生み出す力があるだろうか)や京橋駅近くに立てられた鎮魂のお地蔵様など、砲兵工廠の名残を残すものはほとんどないわけだが、私の住んでいた公団住宅の敷地内にもごく小さな石碑が残されている。中央大通りに面した2号棟、3号棟、4号棟に囲まれた中庭の花壇のなかに目立つことなく建っている。

 私が不思議なものを見たのはその石碑のある中庭である。

 私はその先の第二団地の方に部屋を借りていたので、通勤時などこの中庭を自転車で通って森之宮駅まで出ていた。

 ある日、かなり遅くなり、おそらくは地下鉄ももう終わっているような時間に森之宮までタクシーか何かで帰ってきたことがあった。自転車は駅前の駐輪場にとめていたので、そこから自転車で家に帰った。日付は変わっていたと記憶している。

 中庭を通った時、2号棟の前あたりに15人から20人くらいの人が、なんとなく円になるように集まっていた。

 私はその横をすっと通り過ぎた。

 通り過ぎたあとで不思議でしようがなくなった。

 なんでこんな時間に集まっているのだろうか。

 なんで何を話すでもなく、黙って立っていたのだろうか。

 私はここが大阪砲兵工廠跡地であることを知っていたので、なんとなく不気味になった。もちろんお祭りなどの準備とかで団地のひとたちが集まっていたのかもしれないが、あんな時間に集まることはないはずだ。

 あれは例えば終戦直前に空襲でなくなった人たちが集まっていたのではないのか。この世のものでないものの側を私は通ったのではないのか。もし自転車をとめてあの人の群れに近づいていたら、帰れなくなっていたのではないか。

 などという空想がどんどん出てきて、あとも見ずに部屋に戻って寝てしまった。

 森之宮には7年間住んでいたが、他には一度もそのような光景は見なかった。よってそれが怪談だったのか、ただの勘違いだったのかはわからないままである。

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