奈良の実家がなくなります

 出張で神戸に行ってきた。普段は阪急で移動する。塚口を通過するところで必ず海側のドアのところに張り付いて外を見ている。

 塚口駅から少し西に行ったところに昔「若竹荘」という文化住宅があった。私が生まれたときに椋家が住んでいた場所だ。東京にうつる前ごろはまだあった気がするのだが、今見るともうないように見える。新しいマンションが建っているか、建て売りの一戸建てになっているようだ。一度歩いて確かめてみたい気がしている。

 電車で塚口あたりを通るだけでも、私の最初の記憶は塚口文化住宅か駅のあたりなので、幼い時の記憶を思い出す。

 作業の最中、父親から携帯電話にメールが届いた。「奈良の家の売却手続きが正式に完了した」というお知らせだった。

 塚口で4歳くらいまでを過ごした後、両親は奈良の学園前に家を建てた。私は最初奈良市立登美ヶ丘幼稚園に登園し、途中で新しくできた奈良市立二名幼稚園に編入されてそちらに登園するようになった。調べてみると二名幼稚園は昭和四十八年四月に開園したという(→奈良市立二名幼稚園)。それ以降奈良の家から大学卒業、SEになって直後までのおおかたを過ごしたので奈良は山口の実家よりも「実家」である。

 今は親も実家に戻っているし、私は東京、妹は大阪で所帯を持っているので住む人がいなくなっていた。私が豊中にいるときには月に一回は掃除しに行っていたのだが、それも今はできていない。住む人がいなくなると家は急に傷みが進む。雨戸が開かなくなったり、床がきしむようになったりして、そのまま住める状態ではなくなっていた。家族でも話したうえで、売却することにしていたのだ。

 ただ昨年からのサブプライムローンの影響もあり、なかなか売れていなかった。だいぶ値段を下げた結果、やっと売却先が決まったと父親から聞いていた。そして本日、正式に不動産業者と手続きをしに父親が山口から奈良へ出ていたのだ。

 自分にとっての実家がなくなり、もう戻ることはないということだから、分かっていながらもそれなりに感慨があった。作業をしながらであるが。

 実家のある奈良の学園前、西登美ヶ丘という場所だが、最初は住所が未整理で西登美ヶ丘でなく「ニ名町」だったくらいでうちは最初のころに家を建てた方になるとおもう。新興住宅街のありがちなことだが、同じ時期に同じような年代のひとが家を建てていったわけで、今は町全体が年老いてしまった印象がある。おそらくうちのように実は住んでいない、という家もあるかもしれない。

 そんな家が荒れ放題になってしまいまちの景色を損ねてしまうような例があるということを少し前にテレビ・ニュースで見たことがあった。一軒そういう家があるだけでまちの荒廃を進行させてしまうので自治会などから持ち主に勧告したり対応するのだが、持ち主が対応しない(あるいは出来ない)ことがあるようで解決が難しい例の方が多いのだ、とその取材では伝えていた。

 それをおもうと、父が新しい持ち主に家(土地)をお渡しできたということはお世話になったまちへの義務を果たせたといえるのではないかという気がする。