失われた椋家文書

 子供たちを須佐図書館「まなぼう館」に連れて行った。「連れて行った」といってもこの図書館はもともと椋家の本籍地だった場所に建っていて、実家から歩いて数分の場所にある。

 市販されているパズルや、木で出来た立体パズルで遊べる場所があって、うちの子らが遊んでいるそばでふと、郷土についての資料の棚に『温故』が公開されているのに気がついた。一番若い号で十八号である。

 この『温故』というのは「須佐町郷土史研究会」という団体が出している雑誌で、うちにそのうち1冊は寄贈されてある。私の祖父正隆が家にあった(まさに図書館のあった場所で保存されてきた)古文書をこの研究会のメンバーに貸与し、その調査結果がある巻で発表された時のものだ。

 悲しいことに、かつよくあることに、この古文書は口約束で貸与されたらしく、行方が分からなくなり返却されていない。そういうことがよくあることらしい、ということは網野善彦さんが水産庁の研究所が借り受けた古文書を返却した経緯を書いた書物を読むとよくわかる。また、日本にはまだまだ未研究の古文書が残されているのだ。

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

 私は『温故』という雑誌はそんなに発行されていると認識しておらず、十八号まで出ていることを初めて知った。それにしても手にとって見てみると本当に手で作ったというかんじでほとんどの号に奥付も何もない。大阪市大合気道部の出す部誌でも奥付は書くぞ、とあきれながら手に取ってみていた。

 父親に聞いてみると、当然のことながら父も郷土史研究会には古文書の調査を依頼したが、メンバーで知っているのは1名程度で、その方も行方は知らなかったという。父や私が気づいた時には祖父は認知症が進んで誰に何と言って貸したのか聞きだせず、頭はしっかりしていた祖母も詳しくは知らないという状態だった。

 10号前後だったか、研究会で中心的な役割を担っていた「松尾 龍」さんが亡くなられたことが関東に言及されていて、もしかしたら資料を借りたのもこの松雄さんだったのかもしれないが想像でしかない。

 あとで調べたらこの研究会、ジオシティーズ上にサイトがあるのを発見した。『温故』の目次も全て掲載されていて、内容のデジタル化が進められているようだ。かろうじて『温故』上にだけのこされた「椋家文書」もいずれ公開されるかもしれない。

須佐郷土史研究会