内川の流路をたどる(桜並木〜池上通り)
南馬込の桜並木通りはもともと「内川(うちかわ)」という川が通っていた、という話をこの春に書いた。
前日大田文化の森の図書館に寄る道すがら、この内川の流路を通ってみた。この土地はもともと田園地帯だったので水路あとと思われる道がたくさんあったのだが(「猫間川」探し以来、川あとにはすぐ反応してしまう)、まとめてみると改めて内川あとがイメージのなかでつながってきた。
本来ならば源流から河口まで押さえたうえでまとめることが望ましいが、今回通った流路だけでもまとめておくことにした。やはり近くを流れる呑川(のみかわ)についてはまとめた情報があるのに気がついたが、内川についてはまだまとめられていないかもしれない。
青い夢(呑川・源流・都会の星・セミの羽化・カエル合戦・星の子お話し会・都会の自然)
手法は本田創さんの「東京の水」に強い影響を受けてしまうものと……というかパクリと思われるかも……と思われる。というのは地図を有効活用したいので、時間をかけてこの稿は手を入れていくことになるので予めご承知おきを。時間が経ってまた読んで頂いたら写真が増えたり地図が増えたり、加筆されたり訂正されていることがあるだろう。全体としてまとまったら「マチともの語り」に掲載を検討する。
馬込桜並木通り
桜並木通りは歩道が幅広くとってあって桜が植わっており、花見の時期にはここが場所取りの対象となり、また屋台が出る。ほぼ直線に善照寺の前あたりから南東に向かっているこの道のどんつき辺りに、貴船坂上を通って池上本門寺方面へ行く道がぶつかるところがある。最初の写真はそのあたりから北西(上流)を見た光景。
桜並木通りのどんつきには郵便局がある(大田区中央四局)。上の写真と同じ場所から反対の光景が続いての写真で、郵便局の白い壁が見える。そこで桜並木は終わり、車道は右に曲がって佐伯栄養専門学校の森に行く道と、ゆるく左に行って龍子記念館の方に行く道に分かれる。日本画家川端龍子(りゅうし)の旧宅あとがこの近くにあるのだ。
それとは別に郵便局の横を桜並木の歩道と同じレンガで舗装された遊歩道が通っている。川を暗渠化したあとの分かりやすい例である。
中央4丁目の遊歩道
なぜこのようなかたちになったのか、暗渠化される直前に既に側道がなく建物が迫っているような状態になっていたのではないかという気がする。道は右に曲がって、佐伯栄養専門学校の森にぶつかる。
佐伯栄養専門学校の森は、崖と表現してもいいほど急な地形になっている。内川は崖の岩盤にぶつかり海に向かって流れたものとおもわれる。別の表現をすれば、内川が武蔵野台地を削って、佐伯栄養専門学校の森をつくったといえるかもしれない。
遊歩道がおわると舗装はレンガではなくふつうのアスファルトとなるが、同じ工事で暗渠化が行われたものか、歩道に使われている鉄柱が同じものが続く。それが目印となって流路を見失うことがない。
2枚目の写真にうつっている辺りは特にそうなのだが、この遊歩道は道の両側などが苔むしている。道幅が細く日当たりがないことも一因かもしれないが、川あとであることからくるものなのかもしれない。
下母沢橋あと
佐伯栄養専門学校の森と分かれて左に曲がっていく道が、内川あとと思われる。
川を想像できるゆるやかに左右に曲がる道が続くなか、石の橋柱が残されていて川であることの証拠のひとつとなっている。
東京に来て1年くらいでこの橋のあとは見つけていたが、桜並木通りからのひとつの流れにかかって橋であるかどうかは自信がなかった。この辺りは昭和初期までは田園地帯であったろうというのが私のおおまかなイメージで、あちこちに水路が走っていたであろうとおもわれ、この橋が名前のついた川にかかっていたのか、用水路にかかっていたのかにわかには判断できていなかった。
橋柱は道の両側に一対、半ばアスファルトに埋もれながら残されている。片方には「子母沢橋」、もう片方には「昭和二年十一(月)」と刻まれている。
南馬込に住んで気がついたことに、現在の町名とは違う古くからの町名が残っていて現在も自治会はその町ごとにあるらしいということがある。この辺りは現在の町名では中央4丁目だが、旧町名だと「子母沢」(しもざわ)になるらしい。
後述するが、これより少し「下流」に行くと旧街道が交差するが、その街道沿いを少し西に行くと「子母沢児童公園」があり、やはりこの旧町名にちなんだものと思われる。「子母沢」というと子母沢寛さんを思い浮かべるが、この地に住まわれていたのでペンネームにされたとのこと。
昭和2年というと大正期が終わり太平洋戦争へ傾きつつある時代であるが、ここの文脈から書くとすれば子母沢寛さんが処女作にして古典である『新撰組始末記』を出版されたのが翌年の昭和3年である。
ペンネームをつけられたあとにこの石橋はつくられたのだろうが、あるいは子母沢さんもこの橋柱を眺められることがあったかもしれない。
子母沢寛さんは彰義隊に参加した御家人梅谷十次郎の孫であり、祖父に思い出を聞かされて育たれたため長州には根強い憎悪感を持っておられたらしい、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく』、「長州路」に出てくる記述で私は知っている。おそらく長州人に取り上げられたくないかもしれないな、と思いながら書いている。
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旧街道
桜並木通りから子母沢橋を経て続く道を内川の旧流路あとであるとするのには単純な理由がある。
歩道に設置されている鉄製のポールが特徴のある四角い形をしていて、暗渠化工事後同じ時期に歩道の整備工事が行われたであろうと推測されるからである。この章の2枚目の写真にも、歩道と車道の間にポールが設置されているのが写っている。
ポール自体には特に年月を示すような文字が刻まれておらず、上記推測の暗渠化や道路整備の時期は別途情報にあたりたいが、推測自体は間違いないだろうとおもっている。特に水路というよりは自然河川にふさわしい湾曲が、くねくねとした道に残っている。
この道をしばらく行くと、前章でふれた「旧街道」と交差する。交差点に「古えの東海道」という石碑が設置されているので分かる。
「いにしえの東海道」というあいまいな表記になっているのは、この道がどのような道かまだ研究中である、という背景があるからかもしれない。
五街道という時の、江戸期の東海道はもっと海よりを通っている。この辺りでは第一京浜国道に近い。詳細に書くと第一京浜を平行している道路がある。平和島辺りで第一京浜と別れ、大森警察の辺りで合流する。いずれにせよ、この「東海道」とはかなり離れている。
この街道は現在の池上通りに近い。池上通りを北東に行った大森駅前あたりに「山田歯科医院」という歯医者が入っているビルがあるのだが、そのビルの前に大田区教育委員会が立てた説明板が立っている。
平成十三年(2001年)にビルを建築する際、遺跡調査で敷地内に幅4.4道路の遺構が発掘されたことを説明するものである。
室町時代のものと同定された陶器が発掘されたことから中世の道路遺構と考えられると書かれている。
さらに道路の下から奈良時代の須恵器も発掘されたため律令期に定められた東海道に「関連する可能性がある」。
そんなまわりくどい表現なのは、律令期の七街道については一度消失してしまい、詳細が分からなくなっている箇所が大半だからである。
古代道路について思い出したのだが、新幹線のグリーン席で「WEDGE」とともに置かれていた「ひととき」という雑誌に古代道路について書かれていたのを読み、書き残したことがあった。
「ひととき」の「駅路」についての文章-椋箚記(2004年8月22日)
要点は「奈良時代から平安時代に宮廷により造営された道路は幅が約12メートルもある、直線の計画道路だった。しかも目的により複線であった。」というものである。 静岡市の「曲金北遺跡」という、JRのすぐそばの遺跡で実際に出土した道の遺構を紹介するだけでなく、佐賀平野で同様の計画道路の痕跡を上空写真から確認できる、という話が面白かった。 |
もしこの地においても上記規模の道路造営が行われたのならば、とても今残っている道幅のものではない。現在残っている旧街道はせいぜい中世の街道「池上道(いけがみみち)」あるいは「平間街道」あとというのが適切なのだろうが、多少のロマンを込めて碑文を選んだものであろうかと思われる。
いずれにせよ、この章の4枚目の写真の交差点で内川を街道が渡る橋があったとおもわれる。橋の遺構は残念ながら見つからない。ごみ箱がひもでくくりつけられている石柱があるのだが、あまりな扱いで碑なのか遺構なのか判然としない。
池上通り
旧街道は現在の池上通りから一本北を並行して走っている。旧街道と池上通りの間の内川流路沿いには大森赤十字病院がある。
この辺りの流路あとはまっすぐになっていて一見かわのあととは分からない。赤十字病院前はまだゆるやかに蛇行しているようにも見えるが、池上通りから下流側は綺麗に直線になっていてこれが流路あとかどうか迷ってしまう。しかし、間違いなく川あとである。
地図の変遷を見ると、池上通りより海側が現在のように碁盤の目のように整地されたのは遅くとも大正末期から昭和初期にかけてであるらしい。明治期の地図を見るとこのあたりの流路は大きく蛇行していて、現在の地形から追いきれないほど変わっている。
昭和期以降の流路を見ると、内川はまっすぐJR(旧国鉄)東海道線まで流れていた。一方川として残っている内川は少し南にずれているので戸惑うが、これは現在の流路が線路を越えてまっすぐ西に、呑川に向かっても伸びていたからである。あるいは呑川とつながっていたのではないかと想像する。この流路は内川の本流ではなく、馬込桜並木通りから中央四丁目を通ってくる流路が本流になる。
本流は現在の線路を越えて南にカーブし、現在の流れとなっていた。