椋家文書

 本を表に出してから、堰を切ったように色々な本を読んでいる。箱に入っているのと手に届く場所に置くのと、やはり違う。家内に感謝。

 久しぶりに中公新書から出ている網野善彦さんの『古文書返却の旅』の冒頭部分を読んだ。

 宮本常一さんが対馬で借用した古文書が実は返却されておらず、網野さんが返却しに行かれたことが出てくる。対馬で借用した古文書、というのは岩波文庫で読むことができる『忘れられた日本人』の最初の章「対馬にて」で借りる場面が出てくる、その古文書である。

 宮本さんは寄り合い方式の会議というものがどんなものだったのか、時には話が寄り道しながら、ゆっくり時間をかけて結論まで行く様子を描きたく書かれているのだが、図らずも借用書以上の証拠になってしまっている。返却の話を聞いて、宮本常一さんは網野さんにわざわざ電話してお礼を言われたそうである。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)


 この本を手に取ったのは訳があって、わたしの実家に残っていた古文書のことを連想したからだった。

『古文書返却の旅』でも、まだまだ古い蔵や、襖のした張りなどに膨大な古文書が残っていて、手付かずの状態であること、蔵の取り壊しに伴い処分されてしまっているものも多いことが出ている。

 私の実家は山口県の須佐というところで、最近萩市に合併された、島根県との県境に近いところになる。須佐にはカードがあれば24時間本の貸し出しと返却が可能というのが売りの図書館がある。その所在地が江戸期から昭和にかけて椋家の場所だった。今は別の場所に移っている。

 その旧椋家にも江戸期以来の古文書があった。そして、ある時期須佐で地方史や民俗史を研究する機運があったらしく、貸し出された。そしてその研究発表をまとめた雑誌が第1号は刊行されており実家にあるのだが、2号以降は出されていないようなのだ。手書き原稿をガリ版で刷って手作りしたようなつくりのものである。

 その文書がどこにあるのか……と確認しようとした時には貸し出した当人である祖父は認知症が進み始めていて、充分な経緯を聞き取ることができなかった。祖母もたぶんあの人に預けたのじゃないか、ぐらいのことは言っていたが確かめるに至らず、祖父母両人とも鬼籍に入った。

 上記対馬に返却に行ったとき、網野さんは罵倒の言葉も覚悟されたそうだが、逆に「古文書を返しに来たのはあなたが初めてです!」と言われてほっとした、というくだりがある。誠に、古文書を貸すなら、返って来ない覚悟が必要であるらしい。

 今ならデジタルカメラに全部撮ってそれを共有するくらいわけないとおもうのだが、それができるようになったのは本当にここ数年のことなのだなぁ。

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)

古文書返却の旅―戦後史学史の一齣 (中公新書)