自分の噂

 何度も書くのだが、私は新聞を取っていない。実家に帰ると、目の前にあるのでつい読んしまいはする。

 家内の実家が毎日新聞を取っているのだが、新年に一面から「ネット君臨:第1部・失われていくもの」という特集記事を組んでいた。ごく単純に書いてしまうと、ネットイナゴの害を取り上げた記事だ。新聞が今更何書いてんだよ、という冷笑がネットでは大勢を占めているように感じている。

 西村博之氏のインタビューの「自分は場の提供者であって、中で何が起こっているかまで押さえてないし押さえきれないよ」という主旨は従来と変わらない。そこには詭弁があると私はおもっているが、それよりも「(非がないのに中傷を受ける人もいるのは)ネットのせいでなく、それが好きな国民性の問題。ネットがなくても内輪で楽しむはずだ」という発言を、苦々しく読んでいた。

 実は今回帰省して、我が家に関しての噂が地元で起きているという話が、我々本人の耳にも入った。内容の真否自体、弁明するのも嫌になるような内容なのだが、それよりも「そんな噂話をしていて楽しいのか」という慨嘆の念が強い。

 我が実家のあるまちなど、先の市町村合併でも個性を失ったところで、先行きにビジョンを示せるような動きも出来ていない。ということは、ゆるゆると衰弱するか、どこかで踏みとどまって起死回生といくかどうかの線上である。その状態で、まだ噂話に花を咲かせておられる人間が複数居る訳だ。徐々にゆで上げられている蛙だ。

 ネットであれお茶の間の噂話であれ、同じようなことが起こっているということは、日本は七割がたそんな思考回路で人間が動いているのだな。