上達の仕方についての考察

 しばらく合気道について書くたびに、市大合気道部の来年の40周年について書こうと考えているが、今回は数日後に書き込む予定。


 今年から手帳に「ほぼ日手帳」を使っている。1日1ページの形式で、下欄にためになりそうな一言とか、噴出してしまいそうな話とかが載っている。

 先日9月12日分のページに大塚康生さんというアニメータさんの言葉が載っていた。宮崎駿高畑勲と組んで仕事をしたというアニメータさんだが、Wikipediaを見ると島根県出身の山口市育ちなので、同郷の方のようである。

 言葉というのが「絵は直線でしめせるようにうまくはならない。しばらく横ばいの状態が続いたかとおもうと、ちょっとしたきっかけで技術が上がるというものだ」というような意味のことだった。

 武道なんかにおいても、そのような上達のしかたをする、というのが一般的な認識であるようにおもう。私もそのように感じている。

 勘違いかもしれないが、そういうふうにぐんっと技が上がったと感じたことがあるのである。週に何日も道場に稽古に通い続けている日のことだった。いまくらい稽古から遠ざかると、どれだけレベルダウンしたのだろうか、という感がある。

 その最初が、稽古をしている時ではなくて、ボーリングをしている時だったのが印象に残っている。ボーリングは、10本のピンを倒すわけだけれど、10本あるものでどこかに当たればよい、と考えている自分にふと気がついたのである。

(そうじゃなくて、ぜったいあのピンを、と最初から考えられるか)

 と感じたのがその時の「上達」のきっかけだった。

 こういう考え方は、日本独自のものだろうか? アジア独自だろうか? それとも世界共通?

 現象が先で認識が生まれたのか、認識が先なのか、にわかに判断しかねるが、もし認識が先ならば、仏教の「悟る」という現象がそれに当たるかもしれない。特に禅宗におけるそれである。

 私が中学生か高校生くらいのころ『名僧列伝』という文庫本をしきりに読んでいて、それ以来盤珪永啄であったり道元といった禅僧の考え方が好きだったりするのだが、「悟る」「大悟する」としか書かれていない現象が分からなかった。

 今も充分には分かっていないのだけれど、上記のようなステップアップのとびきりのを掴む、ということなのかな、という気がする。ならば、仏教から何らかの影響を受けている国では、同じような思考規範が見られるのではないかという気がする。

名僧列伝(二) (講談社学術文庫)

名僧列伝(二) (講談社学術文庫)