萩明倫館の孔子廟

 4月30日に曽祖母椋ヨシの五十年祭、祖母椋栄子の十年祭、母椋恵美子の同じく十年祭を行うため帰郷してきた。 前日に新幹線で東京からかつての小郡、今の新山口駅まで移動して萩までは防長バス。萩から実家の須佐までは四駅だが山陰本線は今や二時間に一本というのが当たり前なので父親に車で迎えに来てもらった。そして5月1日には同じルートで東京に戻ったのだがバスは防長バスでなく新たに開通した中国ジェイアールバスを使った。

 

 防長バスの方は途中で停車しつつ、萩に入っても田町商店街の近くにある萩バスセンター、JR東萩駅、萩国際ホテルの順に停車していくのだが、新たに開通した方は明倫学舎から新山口駅直通で早い上に五百円ほど安い。

 

 そもそも明倫小学校からバスというのが不思議だったが、久しぶりにいってみると新しい校舎がつくられたうえで敷地の一部がそれなりの広さの駐車場とバス発着所になっていた。

 

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  写真奥が新校舎で手前が駐車場。旧校舎はというと上の写真の右方ににある。今回すぐバスに乗ったので見に行くことはできなかったが、父親に教えてもらったところによると改修工事のうえ歴史資料の資料館となっているとのことだった。それだけではなく旅行者が最初に訪れる観光センターとしての機能も持たせてある。

 

 この近くには萩博物館が2004年に出来ている。萩のまちの景観を損ねることなく建てられた綺麗な建物で、「まちじゅう博物館」というコンセプトの核にもなっている。萩というのは江戸末期に若者達が沸騰するような勢いで世の中を変えようとしたその場面の坩堝のひとつであったまちであるので萩博物館は自然科学だけでなく人文科学も対象として研究展示する役割を担うのにうってつけの機関となっている。今回明倫学舎が近くにできたことで、「まちじゅう博物館」として統合されたなかで自然科学の展示は萩博物館、人文科学の展示は明倫学舎、というように運営していくと面白いのではないだろうか。

 

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 ここまでは良いのだがひとつ気になる話しがある。どうも萩でもあまり話題にのぼっていないのではないだろうかと心配になった。かつて藩校としての明倫館にあった孔子廟のことである。

 

 孔子廟孔子や四配など儒教上の賢人を祀った霊廟のことである。東京に住んでいると神田明神の向かいにある湯島聖堂を思い出す。現在東洋哲学、中国哲学の一部として儒教が研究されることがあっても宗教的に扱われることはほとんどないと言って良い。従って孔子廟といったものも神社仏閣と比べるとあまり身近な建物と感じない。現存するものでも、例えば湯島聖堂孔子廟関東大震災の際に焼失しており現在のものは再建された建築物である。江戸期からの孔子廟が残っているのはおそらく栃木の足利学校岡山県備前市閑谷学校佐賀県多久聖廟ぐらいではないかとおもわれる。ところが明倫館にあった孔子廟も萩に残っているのだ。といっても現在の明倫学舎にではなく、移築され少し北のほうに行った海潮寺というお寺の本堂になっている。

 

 明倫学舎は本館の一号館と二号館が整備が終わって公開されており、三号館と四号館は現在も工事が進行中となっている。これに加えて海潮寺から本堂の建物を買い取って明倫学舎に移築し戻そうという計画を萩市が進めている。気になるのはこの孔子廟の移築の計画のことだ。建物の購入、移築費用、更には海潮寺の新しい本堂の建築費用を考えなければならず総額九億円にものぼる出費となる。国から助成が得られるなどあるのかもしれないが観光以外でそんなに有力な産業を持たない萩市にとってさすがに大き過ぎる計画ではないだろうか。

 

 この件についてネット検索してもあまり情報が出てこない。もしかしたら山口新聞だのはぎ時事新聞などの地方新聞が取り上げていて市民は知っているのかもしれないが、実はあまり課題が共有されないままことが進んでいるのではないかと心配になる。実際に萩市孔子廟の移築プロジェクトの予算も計上して始めようとしているが、市議会の議事録を漁っていたところ昨年12月16日分では共産党所属の市議会議員2名が反対意見の質問をあげているがあとの議員からはあがっていない。共産党ということで当然野党的に反対意見を述べるのが普通であるようにとられているのかもしれないが、こと孔子廟の移築についてはもう少し議論あったうえでプロジェクトを開始するべきではないだろうか。

 

 あまりに観光産業に偏向する行政施策であるならばそもそも明倫学舎の整備も無駄になる恐れがある。豊かな近世歴史資源をもとに学芸員がきちんと研究活動ができることも志向しているならば未来はある気がするが地方大学の文系研究科においては職業訓練的な内容に特化すべきという提言を真顔で文部科学省の有識者会議が議論する(リンク先はPDF)という教育行政が我々の目の前にあることを考えると孔子廟の移築は同じ価値観で進めようとされているのを感じて衰退しか感じ得ない。むしろ日本語や哲学といった文系的素養が都市・地方に関係なく必要であるという反証こそ求められるものなのだが。

 

◆22番(宮内欣二君) 議案第108号一般会計補正予算(第4号)に、反対の立場で討論します。
 この議案は11億2,677万2,000円 を追加し、322億7,592万4,000円とするものであります。
 職員の人件費に係るもの1億1,845万円や、財政調整基金積立金1億5,827万7,000円、臨時福祉給付金2億1,263万6,000円、ゆとりパーク田万川整備事業1億7,225万5,000円、学校施設予防保全事業2億5,644万5,000円、そのほか災害復旧費などがある予算案です。
 多くの事業は、必要とされるものであるということは、十分に承知しております。しかし、一部に認められないものがありまして、反対をするものであります。
 その一番大きなものは、旧萩藩校明倫館復元整備事業であります。今回、1,283万1,000円が計上され、明倫館の孔子廟移転に向けた補償算定業務、解体移築工事設計業務を進めようというものであります。
 現在は、海潮寺の本堂になっている孔子廟を、明倫館跡地に移築するという事業の具体化であります。総事業費は9億円が見込まれています。  既に明倫学舎として、旧明倫小学校の校舎の整備活用事業が進められています。本館整備に5億9,000万円、2号館整備には8億円、今後、三、四号棟で9億円、これに孔子廟の移転に9億円と、32億円近い巨費が投じられようとしているわけです。ここに一極集中して、今何十億円も投資することに、多くの市民が疑問を持っています。
 市民の状況を見ると、今回の補正予算に計上された臨時福祉給付金の対象が、1万3,300人にのぼっていることを見れば、よくわかります。市民税の非課税の人が、全人口の27%にもなり、全国水準の2倍から3倍に近い状況です。高齢化が進み、年金が削減され、介護保険国保などの社会保障の負担がふえています。賃金は相変わらず低水準でありますし、農林水産業では、いつやめても不思議はないというぐらいに、所得は上がっていません。市民の暮らしが大変なときに、ここに一極集中して、何十億円もの巨費を投じた大事業を展開することは、市民の理解を得るのは難しいのではないでしょうか。
 文化財の保存・保全を否定するわけでありません。当然進めていくべきことだと思います。しかし萩地域では、合併以前から、まちじゅう博物館構想と言って、文化財などがまちの中に、あちこちにたくさんあるということから、これを生かした取り組みが進められてまいりました。合併しても、旧町村部のお宝にも、その考えは広げています。その考えは、一つのところに集めるのではなく、まちの中の至るところにあるものを、その地の人々が大事に守り、生かしていこうという取り組みだと私は思っておりました。

 今回、進められようとしている孔子廟についても、海潮寺の本堂として、明治初期からずっと守り続けてこられています。孔子廟だった建物がなくなる危険があるわけではありません。立派に保存され続けています。
 このお寺に先祖のお墓がある人が言っていました。「本堂が明倫館の孔子廟だということは、私の誇りであり、売り渡すことは反対だ。そのままにしておいてほしい。」このように述べておられました。これは印象的でした。
 まちじゅう博物館構想の考えでいけば、孔子廟が海潮寺にあることが、まちじゅう博物館としての面白味を出しているのではないでしょうか。明倫学舎が萩を学ぶ起点施設として整備されるように、そこからまちの中をめぐって行くための大事な資産だと思います。この孔子廟を、移転、復元することが、逆にまちじゅう博物館構想の面白さを低下させるのではないかと危惧しています。

 移転しても、その孔子廟がなくなるわけではなく、朽ち果ててしまうわけでもありません。そこに、立派に存在しているわけですから、わざわざ大金をかけて移築する必要はないと思います。
 もう一つ懸念があります。復元移転というわけですから、復元となれば、元の位置に、元にあったように建てなければなりません。そうなると、旧明倫小学校の校舎と重なってしまうのではないか。
 確かに建物だけは、十数メートル離れているというふうに言っておられます。しかし、大規模建築では、この距離は至近です。景観的にも面白くありません。また、本体建物だけが孔子廟ではありません。孔子廟の復元ということになれば、いずれはん水と言われる池や、その周辺にあった土塀も復元しなければなりません。これは校舎と重なってしまいます。重なれば、校舎を壊すか、復元をあきらめるかということになります。孔子廟の建物だけの移転は、復元とは言えません。この計画は、初めから見通しがないという状況ではないでしょうか。
 人口減少が激しく、特に周辺部となった地域では、中心部の2倍のスピードで、人口が減少しています。地域の消滅の危機が迫っている。そういうときに、中心部に一極集中して、大事業が行われることには、大きな疑問を持っている人がたくさんいます。

 先に述べたように、どこであれ、市民の暮らしの状況は、かなり厳しくなっています。その市民が今望むのは、孔子廟の移転ではなく、市民の命と健康を守り、暮らしを応援する施策、子育て支援、教育、衰退していく地域振興へのてこ入れなどであります。こうした問題が山積しています。
 合併以来、金がない、財政が厳しいと言って、市民の要望を押し込めてきた萩市です。その金を、ここに一極集中してつぎ込むことには、市民の理解は得られません。この事業は中止すべきだと考えます。
 よって、その始まりとなる予算が含まれるこの補正予算には、反対いたします。  以上です。

萩市議会会議録検索 より 平成28年12月定例会-12月16日-06号

 

◆1番(五十嵐仁美君) 議案第108号平成28年度萩市一般会計補正予算(第4号)に、反対の立場で討論に参加します。
 今回の補正の主なものは、職員の人事異動、人件費の調整のほか、臨時福祉給付金給付事業、道の駅「ゆとりパークたまがわ」整備事業、学校施設予防保全事業等の、国の平成28年度補正予算(第2号)を活用する事業及び旧萩藩校明倫館復元整備事業、繰越明許費の設定及び地方債の補正です。
 どれも必要な補正であり、問題ないのですが、旧萩藩校明倫館復元整備事業1,283万1,000円が見過ごせません
 この事業は、明倫館の復元に向けて、明治初期に、市内の寺院の本堂として移築された藩校の孔子廟を、発掘、調査し、元の位置に移築するために必要な経費を算定、設計する業務です。
 そもそも、旧萩藩校明倫館復元整備事業が始まったのは、平成15年からです。
 昭和4年に、国指定史跡となった水練池の指定地拡大で、萩開府400年事業の一つとして、南門を、萩幼稚園本願寺から移築復元しています。
 その後、平成21年に、萩商業高校跡地利活用検討委員会において、孔子廟の復元整備計画が出され、平成23年12月議会で市長より、孔子廟の移築について提案され、平成25年3月議会で市長より、孔子廟を中心として、新しい藩校の位置づけができないかとの見解を提示されています。
 平成25年5月から、明倫小学校跡地利活用検討委員会が4回開催され、旧萩藩校明倫館の復元について、まちづくりの観点から、長期的な展望に立って整備を目指すと、平成26年1月に決定し、平成27年の萩市総合戦略に、孔子廟、観徳門、聖賢堂等を、元の位置に移築整備するため、発掘調査などの整備に着手すると明記しています。
 そしてことしの市長施政方針で、明治維新150年の記念事業として、萩・明倫学舎と、萩藩校明倫館の整備に取り組んでいくことを表明しています。
 この間、旧萩藩校明倫館の復元計画にかかわってきた方々は、市長を初め、観光協会NPO萩まちじゅう博物館、商工会、社会教育委員会、PTA役員、児童クラブなど、旧萩市を中心とした組織の代表が中心となっています。孔子廟移築に賛成される方の多くが、文化財保護活動を日ごろからされている方々や、意識を持たれている方々が多いように思われます。
 残念ながら、私の周りには、日々の生活に追われていて、文化財に縁遠い方もいて、旧萩藩校明倫館復元のために、9億円をかけて孔子廟を移築する計画があることを知っている人はほとんどいません。特に、旧郡部の方々は、復元の話が進んでいた間、蚊帳の外にいたのですから、急に市報に載っているからと理解できるものではありません。
 今、市民の求めていることは、生活の安定です。守っていかなければならない萩のお宝は、文化財ではなく、萩市民です。日本の宝だと国が言うのであれば、国にこの復元事業をお願いし、市民に目を向けるべきではないでしょうか。
 今後、緊急性のない孔子廟移築につながっていく、旧萩藩校明倫館復元整備事業には反対です。
 よって、議案第108号平成28年度萩市一般会計補正予算(第4号)には反対します。

 萩市議会会議録検索 より 平成28年12月定例会-12月16日-06号

 

石の顛末

 三連休の最初の3月18日土曜日、ゆっくり寝ていたが御手洗にと起きたところ左下腹部に痛みがあることに気がついた。用を足している時に、とかではなく寝ても起きてもずうっと一定に痛い。激しい痛みという訳ではないが同じように痛みが続く。

 

 幸い近くに土曜日も午前中は診療されている泌尿器科の医院があったので通院した。和田クリニックといって、私や子供達がかかりつけになっている荏原町商店街の入り口にある和田眼科の先生のご主人が開院されている。和田先生も曜日によって和田クリニックの方で眼科の診察をされると聞いたことがあってすぐに思い出すことができた。

 

 診察前に検尿をするのだが、自分で採尿した時点で(あれ、なんか濁ってる?)と感じた。案の定「血尿ですね」と言われた。エコー検査で石は見つけられなかったが「間違いなく尿管結石でしょう」との診断。

 

 超音波破砕だのという話しをどこかで聞いたことがあったが自分の場合どうするのだろう……と内心思っていたところそんな大げさでない処方が一般的であることを丁寧に説明いただいた。下記二種類の錠剤を処方いただき毎食後に服用となった。

 

チアトンカプセル10mg

 ムスカリン(副交感神経を興奮させる物質)のはたらきを抑えて胃液やガストリン(胃液の分泌を促すホルモン)の分泌を抑えるとともに、粘液の分泌を促したり、胃粘膜の血流をよくする作用もある薬です。

 副作用も少なく、長期間使用し続ける薬として適しています。

 消化性潰瘍(かいよう)のほか、過敏性腸症候群、胃痛、胆嚢炎(たんのうえん)・胆管炎・尿路結石などに伴う腹痛の治療にも用いられます。

チアトンの効果・副作用 - くすり・薬検索 - goo辞書 薬の手引き 2011-12年版 より

  → 説明では副交感神経を抑えることで尿管を弛緩、拡げさせて排出しやすくするとのこと

・ウロカルン錠225mg 

 ウロカルンは、ブナ科の植物ウラジロガシから抽出したエキスで、抗炎症作用、結石の発育抑制・溶解作用があるほか、利尿作用によって尿量を増やし、結石の排出を促進します。  腎結石(じんけっせき)・尿管結石の治療に用い、長期間使用しても効力は変わりません。  ロワチンは、各種の植物から抽出したエキスを混ぜてつくられた薬で、尿路結石の治療に効果があります。

ウロカルンの効果・副作用 - くすり・薬検索 - goo辞書 薬の手引き 2011-12年版 より

  → 説明では利尿効果を主に挙げられていた

 

 結果としては早速服用を始めて翌日には痛みが治まってきた。ただ当日から翌日曜日にかけて微熱があった。私は平熱が低く35度8分前後なのだが36-37度台出ていた。19日の日曜日は合気道の稽古があり、痛みが引いたなら動いた方が結石が排出されるのではないだろうかと素人考えしたのだが、複数の方から無理して再悪化するぐらいならもう少し休むべきと助言いただくこととなり寝て過ごすこととした。結果として連休最後の日には痛みもなければ体温も平常という状態に戻り、連休明けには何事もなかったように仕事できていた。連休にどこにも行けなかった家族には申し訳なかったが。

 

 泌尿器科でもうひとつ言われたのが「石が出たら拾っておいて下さい」ということだった。結石ができる理由はひとつではなく、再発防止策は結石そのものを検査しないと詳細には判断出来ないのだという説明だった。

 

 はて排出時に分かるものなのだろうかとどきどきしながら毎度用を足す際に気にしていたが二週間後の再通院まで石が出てきたことを認識することは出来ずに過ぎた。再通院時にそのことを話すと「結石はおりてくる過程で砕けてしまうことが多いので仕方がないですね」と言われ、食事制限など明確なことは分からないこととなった。ただし結石が一度できると再発率が高いことも説明され、正確な数値は忘却したが数年以内に5割以上再発するのだという。できるだけ防ぐために「水分を多めに摂りお手洗いにもこまめにいくこと」を言われた。

 

 関係あるのかないのか分からないのだが尿管結石ができる以前から人間ドックの検査結果でクレアチニンの検査値が少しだけ高めで「水分を多めに」云々の助言は受けていた。仕事をしているとつい椅子から立ち上がらずトイレも後回しとなる傾向があるのだが、いい加減にしないといけないと強い警告を受けたということなのだろう。

 

 もし再び症状が出た時のためにチアトンとウロカルンを追加で処方いただき人生最初の尿管結石はいったん完治した。

 

尿路結石症診療ガイドライン 2013年版

尿路結石症診療ガイドライン 2013年版

 

 

 

スタンレー・プラニン氏へのお悔やみ

 先日2009年の合気道に関する文章のリンクについて Twitter でポストがあった旨通知があった。そんなに頻々とあることではないがそのように過去書いたものを掘り起こしていただくことは有難くある。その方の Twitter のポストを参照するとひとつあとのポストがスタンレー・プラニンさんの訃報記事のリンクがあり、プラニンさんについて調べていて目にされたのかなと推測することとなった。それより、それを読むまでプラニンさんの訃報について知らなかったので急ぎ調べることとなった。2017年3月7日にラスベガスで逝去、胃癌だったとのことだ。存じ上げず、すぐにお悔やみ申し上げられなかったことを申し訳なくおもう。Facebook に彼が立ち上げた合気道のためのメディア "Aikido Journal" のページがあり、訃報のポストに遅ればせながらお悔やみのコメントを入れた。

 

 

 合気ニュースを立ち上げて合気道植芝盛平翁先生に関するあらゆる情報を蒐集、アーカイブ、発信してきたスターンレー・プラニン氏の業績には合気道を稽古しているひとならば誰しもお世話になっているはずで、勿論私もそのひとりである。彼が初めて来日したのは植芝盛平翁先生が亡くなられた直後であり、翁先生に会えなかったことからくる飢餓感がそのアーカイブ構築のモチベーションになったのだろうと推測するが、その成果の恩恵には一番情報が集積されてよいはずの日本の稽古者達も浴している。私が合気道を始めた頃に師範である阿部醒石先生の指導を受けられる機会がなかなか無く、阿部先生が道場に定期的に来ていただけるようになってからは出来るだけ道場に行くようにしていたのと同じような渇望感であったのではなかったかと勝手に共感する。

 

 少し前にも書いたが合気ニュース社から出ていた書籍は年月も経って絶版状態になっているものが増えていて、代わりに一部書籍はキンドルで読めるよう電子化が進められている。下記あたりは合気道に関する資料のなかでも白眉だとおもうのだが既に古書のみ、あるいは在庫わずかになっていて電子化を切望するものではある。

 

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

植芝盛平と合気道―開祖を語る19人の弟子たち (合気ニュースブックシリーズ 1)

 

 

[DVD] 植芝盛平と合気道 第一巻 「合気武道編」

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 合気ニュース社の後身であるどう出版が対応いただけるか待つものだが、今回どう出版が note を使ってスタンレー・プラニンさんが合気ニュースに掲載した論説を無償で公開していることに気がついた。

合気道史家 スタンレー・プラニンの「論説」 | 合気道史探究|どう出版

 

 また2012年にプラニンさんが来日されていた時にどう出版編集部の方と会われている様子が Facebook ページに投稿されているのを読んだ。この辺りを読んでいて、かつて合気道専門誌が無くなっていくことを書いた際に敢えて触れなかった可能性のことをおもうようになった。

 

mukunokiyasuo.hatenablog.com

 

 触れなかったこと、というのはプラニンさんが合気ニュースから離れていった理由のことで、プラニンさんと他の編集メンバーの方向性の違いにより離れられたのだろうかという想定で書いていた。2012年のどう出版 Facebook ページをみる限り関係は良好だったように思われる。そしてプラニンさんの論説文を読むと合気ニュースの方針が不偏不党であったことが明言されている。

 

 最後に、合気ニュースの「中立性」についてお話ししたいと思います。  「中立性」という表現は、私たちの合気道流派に対する態度を述べる時によく使われますが、「独立」という表現のほうがもっと的確かと思います。

【論説】合気ニュースとは? | どう出版 | note より

 

  あまり考えたくないことだが、主流を占めている合気会に所属するかたの中に「何故岩間(齋藤守弘師範、齋藤仁弘師範)を取り上げる取り上げるのか」「万生館(砂泊諴秀師範)をとりあげるとは」というようなことをプラニンさんに言われる方があって、それにやりにくさを感じるようになって帰国しての活動を決断させたということはなかっただろうか。プラニンさんが日本を去ったことで、日本に残った編集部は自然に合気会から距離ができ、ひいては合気道からも距離ができてしまったのではないだろうか。

 

合気道専門誌についての考察」でも書いたように空手の宇城憲治師範への不自然な偏重があってひとつの原因でこうなったのではないのではないかとは考えるのだがそんなことまで改めて思い当たった。

 

 それはさておき、スタンレー・プラニン氏の合気道史研究結果の恩恵を浴してきたことを改めておもい、心より御礼と御悔やみを申し上げる。その気持ちの発露のひとつとして、初めて Wikipedia にアカウントを作ってスタンレーさんの日本語のページを更新した。英語のページには既に没年が反映されていた。

 

馬込図書館の「馬込の記憶」展

 馬込図書館で昨年、面白い企画が二件続いてあった。ひとつは「ねこと文学ー『月刊ねこ新聞』創刊200号記念座談会」 、もうひとつは「『月刊おとなりさん』創刊400号の葛藤」。このうち「月刊ねこ新聞」の副編集長原口美智代さんを招いてのについての座談会は私も聴講させていただいた。

 

『月刊ねこ新聞』はこれについて書くだけで長くなってしまうぞというものだが猫をテーマに据えた文芸新聞ということになるだろうか。恥ずかしいことながら私は十年馬込で暮らして編集室たる御宅の前も日常的に行き来していながらこの美しい新聞について馬込図書館の企画に会うまで全く知らずにいた。美しい、というのは比喩ではなく、紙質といいデザインといい見た目が誠に美しい。で読んでみるとコンテンツたる絵や随筆も品がある。馬込図書館に行けば入ってすぐ左の棚に最近の号がおいてあるので読めるが本来は定期購読で成り立っていて興味があるかたは本当に申し込んで手にとってみてほしい。

 

www.nekoshinbun.com

 

『月刊おとなりさん』は馬込に住むようになってからずっと読んでいる地域誌で、今までも取り上げて言及したことがある。地元大田区の文化センター、会社、お店などに月会費いくらかで買って置いてもらうというやり方で配布されていて、取材結果で面白いものがあれば単行本を作ってリリースするということもしている。十年前に大森駅の本屋で買い求めた『月刊おとなりさん』発の単行本『学校裏から始まった2』は今も私の本棚にあって時々読み返す。編集長が講演をされるということでこちらも注目していたが別の予定があって行けなかった。

 

 さてこの馬込図書館だが今年になっても面白い企画を打ち出している。今進行中のプロジェクトが「馬込の記憶 作品展」というもの。馬込図書館開館45周年を記念しての事業で、一般からメールで写真や絵画作品で馬込に関するものを募集し展示、作品集にもまとめるというものだ。

 

 実は私がこのような文章を書いている時に使っている iMac のローカルディレクトリ上には「馬込の記憶」というサブディレクトリがある。『猫間川をさがせ』や『内川逍遥』といった作品と並んだ、執筆作品用のディレクトリなのだけれどいつか書くことがあるかもしれないという仮題的なディレクトリで、何のシンクロニシティだろうと思ったものだった。個人的な作品のための仮題として「馬込の記憶」を思いついたものとしては、集合知的に地域の画像記憶を収集しようというプロジェクトにこのタイトルを使われると虚をつかれたような気持ちになる。

 

 自分が馬込の住人としては「若い」ので特に何が出せるということはないのだけれどそれでも「失われた馬込の建物」について昨年ここで書いていたあたりから写真の一枚ぐらいは出せないかと見直している。

 

 なおこの企画だが近隣でどれぐらい知られているのだろうか……パンフレットの出来がとても良いのだが既に多くのひとが手に取っているだろうか。表に使われている写真は自動車のデザインを見るに馬込図書館が開館して間もない昭和五十年前後の風景だろうか。裏にはプロジェクトの主旨と、馬込図書館の略年表が載っている。大田区のウェブサイトに情報が載っているのだがパンフレットの画像が小さくて十分にアピールできていないようで勿体無いようにおもう。

 

大田区ホームページ:「馬込の記憶」作品展(馬込図書館)

行事案内記事│大田区立図書館

 

  実はこのあとにさらにウィキペディアタウンを馬込で実施する企画もあって、これについてはまた書きたい。馬込図書館のこの快進撃は大田区の組織がいい感じなのか、現在の図書館長さんの手腕なのか、そんなことにも興味をもってみている。

 

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十字投げについて、再び

 一月だったろうか、大田区合気道会で十字絡みの稽古をしたのだが、ちょっとうまくいかず恥ずかしい思いをした。

 

 これはいかんなぁと反省していたのだが、自分の書いたものを振り返ったら四年前にも同じようなことを書いていることに気がついて更に反省を深めることとなった。

 

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 四年前に齋藤守弘師範の教本ぐらい読み返さなきゃ……と書いているわけだがみごとにそのままにしていた。改めて振り返ると僅かな書籍購入費用をケチってそのままにしていたわけだが、改めて検索してみていろいろおどろくこととなった。

 

 まず齋藤守弘先生の教本だが、どうやら絶版となっているようで市場においては古書で当初の値段より高価な値段で出ている状態となっていた。出版元のどう出版のショップページも見たが合気ニュース時代に出た本はどれも棚から外されている。この出版元の変わりようについては過去に書いているがより変化が進行しているようだ。

 

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 だがそれはいわゆる紙でできた本の話であって、アマゾンでは Kindle 版が出ていることに気がついた。電子書籍について継続的に読んでレビューブログなど書いているものとしては不覚だった。楽天koboをはじめ他のサイトでは出ておらず、アマゾンに限って出しているものらしい。今度は買うことにした。教本は写真が多いこともあってリフロー版ではなくページイメージをそのまま使って電子化されている。かつて大学合気道部でいわゆる「トラディショナル」を開いて皆で読みながらああでもない、こうでもないと言いながら稽古していたイメージが残っているのだが今となっては集まっての稽古も少ないし別に Kindle 版であってもなんら問題ない。そもそも今の稽古では教本そのもののかわりにタブレットを覗き込みながらの稽古となるのかもしれない。

 

 ということで『新装版 武産合気道 第1巻: 基本技術編』を読んでいる。十字絡みについては胸取り、後ろ両手首取り、後ろ胸取りが解説されてある。十字絡みに限らず、この1巻に書かれてある技はすらすらと出てくるようにしたいと読んでいる。

 

新装版 武産合気道 第1巻: 基本技術編

新装版 武産合気道 第1巻: 基本技術編

 

 

全日空国内線機出発前に忘れ物を取り戻した

 荏原警察署に東急バス車内で落としたネックウォーマーを取りに行った三日後のことである。関西に日帰りで出張で、行きは羽田空港から伊丹空港まで飛行機で移動した。その搭乗の際のこと。

 

 搭乗の待合の椅子の上にノートブックパソコンが入っているらしく布製ブリーフケースが置いてあった。持ち主らしきひとは辺りを見渡してもみつからない。搭乗口を通る時に係りの方に「あそこに忘れ物が」と伝えていった。

 

 自分のシートに座ると果たして忘れ物を知らせるアナウンスが入ったが、聞くと忘れ物は二件あるとの内容だった。ひとつは私が届けたブリーフケース。もうひとつはチャコールグレーのマフラー。今日は忘れ物が多いんだな、と思って聞いていた。そのうちにブリーフケースは無事持ち主に届いたらしくチャコールグレーのマフラーの持ち主を探すアナウンスだけが流れるようになった。誰だよ……と思っていたのだがアナウンスが四度目が五度目になった時にふと気がついた。チャーコールグレー?

 

 確か自分のマフラーは搭乗前に鞄に入れたと思っていた。ちょうどブリーフケースの忘れ物に気がついた時だ。エディ・バウアーで妻に選んでもらったもので気に入っているものだ。多分出発の三分ぐらい前だ、通路側の方にお願いして立たせてもらい、アテンダントさんに自分のかもしれないと伝えた。

 

 アテンダントさんに前方の入り口に案内される。すると空港側からマフラーがリレーされてきた …… やはり私のマフラーだった。ひとの忘れ物を気にして自分が忘れ物をしていたのだ。しかも冒頭で書いた通りネックウォーマーを忘れ物したのが無事帰ってきて三日しか経っていない。その日は(もう俺はダメだ……)とずっと項垂れだ気持ちで関西出張のいちにちを過ごした。

 

 私が気づかずに出発時間を迎えたら落し物となったマフラーは羽田空港の忘れ物センターに送られ、あとで取りに行かねばなくなっていた。過去に羽田空港で傘を忘れて後日取りに行ったことがある経験をもつ私としては更に経験を積み重ねるところだった。ちなみに機内で忘れた場合は各航空会社の遺失物係が預かるらしい。飛行機では幸いにも忘れ物の経験がないがJR東北新幹線車内に傘を忘れた時には仙台駅の遺失物窓口に行ってしまい、そこから着払いの宅配便で送ってもらったので同じような取り戻し方になるのではないかと推測できる。東北新幹線の時は東京駅に戻ってきてから問い合わせし、思わず「新幹線に乗せて東京駅まで送ってもらって後日取りに来るってのはできないんですかね」ときいてしまったが「そんな対応はできません」と冷静に返されて仙台駅まで取りに行くか、宅配便で送るかどちらかだと説明された。それはそうだろうとおもう。JRの貨物車なんてのはあるが法人向けだし、旅客輸送が本分のJRにイレギュラーな宅配サービスの提供を求める方が間違っている。今回ももし私が気づかずに出発していたら羽田空港に取りに行くか、宅配便で送ってもらうことになったのだろうとおもう。

 

 ちなみにこの日は帰りは新幹線だったので気がついて本当に良かった……

 

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「落とし物を取りに行ってきた」シリーズ



 

 

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大阪市立大学合気道部の五十周年

 1月21日の土曜日に大阪市立大学合気道部の関東地区のOBの稽古を開催してきた。場所は以前も使った小平市民総合体育館。人数は多くないが11時半頃から13時半過ぎまで稽古をした。寒かったのだが木剣と杖も持って行って素振りもやりつつ。

 

 体育館にほど近くにある先輩のご自宅に伺って新年会的に懇親会をしたのだがめでたいというよりは割りと真面目な議論となった。OB会の運営についてのことだ。

 

 大阪市立大学合気道部は私もOB事務局です、という顔をして普段ウェブ上の情報更新など行っているのだが組織としてはあまりしっかりしていない。そもそも17、8年前にOB会をもうちょっと組織だったものにしようと何人かの若い世代OBが動いたことがあって私もそのなかのひとりだった。規約を作ったりそれに基づいてOB総会を開催した時の司会をしたのが私。

 

 しかし中身は属人的に動いていた状況であり、そのうちに私は東京勤務になって大学にも顔を出せないようになり、他のOBも同様に大阪を離れたりして実質有名無実な感じになった。私が22代幹部だったから私より上の世代がおられるわけだが面白いものでわが合気道部にはそういう組織運営に長けたひとがあまり出ずOB会が充分に機能せず現役生任せになってもそのままにされていた。

 

 大阪市立大学合気道部は2017年度で創部五十周年を迎える。五十周年というと節目として重要で、現役生に任せてなんとかなるという行事ではもはやないのだが、我々OBは五十年の長きに渡りそれを放置してしまったのだ。そのことを気がつくための議論だった。

 

 その五十周年記念式典だがこのたび日程が決まった。2017年11月18日(土)だ。阿部豊雲師範のご予定を伺って決まった。場所と、記念式典で何をするのかはこれから決めていく。今まで記念式典でこうしてきたから、という固定観念をOBは一度どこかに置いて考え直すこととなる。OB会が主催する、初めての記念式典になるからだ。

 

 私が東京に移ってから四十周年と四十五周年の式典があったが、いずれも出席していない。子供が幼く家族優先にしていたこと、交通費の負担が大きかったことが主な理由だった。今回も財政的に余裕があるわけでは全くないのだが今年の五十周年は参加するようにしようと準備をはじめている。

 

 

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